“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
西川周作「40歳までプレー&楢崎超え」 “キックの先駆者”の若手GKへの闘志と金言
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byJ.LEAGUE
posted2020/09/25 11:40
自身も10代のころから出場機会に恵まれてきた西川。今年で34歳、若い世代の躍進に刺激を受けながらも目標は見失っていない
ユース時代のあだ名は「和製チラベルト」
近年、GKの役割は大きく変化したと言っていい。前線でのプレスの徹底や、ハイラインのサッカーが主流となった現在では、ポゼッションへの関わりを求められることが増え、相手のプレスを掻い潜るフェイントや攻撃のスイッチを入れる縦パスなど、フィールドプレーヤー同様のタスクを任されるようになっている。その意味で、キックに優れる西川は先駆者的な存在でもあった。
「小学校のころから両足のキックに自信があった。サッカーを始めたときはサイドバックをやっていたのですが、利き足の右足ばかりで蹴っている自分が嫌というか、左利きにめちゃくちゃ憧れたんです。左利きになりたくて、ずっと左足でボールを蹴っていたら、だんだん蹴れるようになっていきました。
小学校の途中でGKにコンバートされてからも両足のキックは生かせると思って練習を続けていました。自主トレはほぼキックの練習でしたね」
昔話をすると、大分U-18時代の西川のあだ名は「和製チラベルト」。屈強な体躯と俊敏な動きで世界屈指のシュートストッパーとして恐れられたホセ・ルイス・チラベルトは、一方でFKやPKでゴールを量産する異端の存在だった。西川少年はそんなパラグアイの英雄の姿に魅了され、キックを磨いたのだという。当時はキックに対して「俺はこんな遠くまで飛ばせるぜ! FKも決められるよ!という感覚でした」と振り返るが、事実、高3の日本クラブユース選手権では、鮮やかな弾道のキックを直接ゴールに突き刺している。
ミシャは時代の流れをいち早くJリーグで具現化するべく、そんな西川のキックの質を必要とした。
変化に順応できたのはキックを磨いてきたから
「ミシャに『GKって守るだけじゃないんだ』ということを教えてもらって、世界が広がりました」
すぐに順応した西川はミシャサッカーの申し子となっていった。ミシャは浦和の監督に就任した際も、熱心なラブコールを送っている。
「浦和でのミシャのサッカーは広島時代とは少し異なっていた。広島時代は自分たちがポゼッションをしながら、横に、縦にワイドに使って、とにかく回して回して、最後は一発で仕留めるサッカー。浦和では、自分にプレスに来られた時は一発のミドルキック、ロングキックで相手の裏を狙う、形勢をひっくり返すキックを求められるようになりました」
広島でボールを正確にコントロールして繋ぐキックを磨き、浦和ではもともと得意としていた中長距離のキックを融合させた。これにより西川のプレーエリアは一気に広がったのだ。
「幼い頃からキックを磨き続けてきたからこそ、時代の変化に順応できたと思います。今でもふと、純粋にキックに打ち込んできてよかったと思いますね。後にずっとプロでやり続けられる武器を身につけられたと思います」