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菊池寛と一緒に「無観客ダービー」へ。
生き証人が語る1944年の日本競馬。 

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島田明宏

島田明宏Akihiro Shimada

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photograph byKyodo News

posted2020/08/13 11:30

菊池寛と一緒に「無観客ダービー」へ。生き証人が語る1944年の日本競馬。<Number Web> photograph by Kyodo News

76年ぶりの無観客開催となった今年の日本ダービー。1944年の日本競馬もまた、時代に翻弄されての開催だった。

大人たちが手をつないでいた理由。

 当時、馬券は単勝と複勝のみ。大卒の初任給が30円ほどの時代に、馬券の最低単位は20円だった。

「スタンドの上から、大人たちが手をつないでいるのが見えたんです。ひとりでは買えないので、15人から20人ぐらいの知らない人たちで1枚の馬券を買って、行方不明にならないようにしていたわけです。馬が走っている様子より、そうした光景のほうが印象に残っていますね」

 しかし戦況が悪化したため、1944年の競馬は観客を入れず、馬券も売らない能力検定競走として行われることになった。

 同年の「優駿」1月号巻頭には、馬政局長官・岸良一が「競馬の停止について」という一文を寄せている。

「大東亜戦争下第三年の新春を迎へるに当たり(略)米英撃摧に邁進する決意を新たにしたい。本年は競馬界にとつても正しく非常時であつて、先般の閣議決定による競馬場応召に対する措置を実行しなければならぬ年である」(一部旧字と送り仮名を改めた・著者注)

4~6月の毎週末、東京と京都で開催。

 また、主催者の日本競馬会理事長で「日本競馬の父」と呼ばれた安田伊左衛門もこう記している。

「情報局から発表せられたとほり、昭和十八年秋季宮崎競馬を最後として、競馬法による競馬は一時停止せられ、これに代わつて能力検定競走が施行せらることになつた」

 名目上は「競馬の一時停止」ではあったが、実際のレースは、前年まで行われていた競馬のつづきであった。春季能力検定競走は4月22日から6月中旬まで毎週末、東京で18日間、京都で17日間、1日10レース、25分のレース間隔で行われた。

【次ページ】 「吉川英治さんもいたような」

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