フットボールの「機上の空論」BACK NUMBER
久保建英がいることで視える世界。
カズを見て校庭を走り回ったように。
posted2020/08/10 11:50
text by
中野遼太郎Ryotaro Nakano
photograph by
Mutsu Kawamori/AFLO
視座、という言葉があります。
ビジネス関連の書籍で頻繁に見かけるような言葉を冒頭から使い始めた僕を見て「賢いフリをするな」という幼馴染みの顔が浮かびますが、少しだけお付き合いください。
辞書で『視座』という言葉を引くと「物事を見る姿勢や立場」と書かれています。これは『座』という漢字が示すように「世界をどの座標(高さ)から切り取るか」ということを指していると僕は捉えています。
ひと昔前までこの言葉は(特にサッカーの世界においては)「あいつは意識が高い、意識が低い」という、より大きく抽象的な表現に包括されていたと思いますが、そこから『視座』という言葉を抽出することによって、その言及対象は「行為」から、その「視(み)ている先」へとすることができます。
本質的な差を生み出すのは、意識の高いアクション(習慣)そのものではなく、その行為をどこに辿り着くためにしているのか、という部分です。
「意識が高い」と「視座が高い」は異なる。
つまり、「意識が高い」と「視座が高い」は異なる概念で、サッカーの世界においても、やはり「何を視るか」という座標の高低は、長期的な選手の人生に大きな影響を与えます。行為としての「意識の高さ」が仮に同じような水準だとしても、視座が違えば結果は異なってくるのです。
「モテたい」と思って練習に臨むのと「プロ選手になる」と決意して練習に臨むことには差がありますし、「1回戦を突破すること」を目的にする集団と「大会で優勝すること」を目的にする集団にも差が出てきます。同じように「真剣に一生懸命」取り組んでいたとしても、です。ちなみに、ここでいう「差」は違いであって優劣ではありません。優勝を目指す集団のほうが、1回戦突破を目指す集団よりも「偉い」とか志として「優れている」ということでは全くありません。
では、「サッカー選手」にとっての視座とは、どういう成り立ちをしているのでしょうか。サッカー選手が少し先の未来を「視る」とき、それはどういう構造をしているのでしょうか。