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50歳荻原健司、肩書きを捨てて再出発。
小さなジャンプ台で蘇ったあの感覚。
text by
雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph byTomosuke Imai
posted2020/07/20 11:00
子供を対象にしたスキージャンプ教室など、新たな道を模索し始めた荻原健司。
安穏とすることを嫌った現役時代。
荻原が辞める直前のシーズン、北野建設スキー部の成績は芳しいものではなかった。責任ある立場の人間としてけじめをつける、という側面がなかったわけではない。だが、自らの中にくすぶる実感こそが最大の理由になった。
「あのまま自分が北野建設に指導者として残って『我がチームには五輪メダリストがいる。私が五輪選手を育てましたよ。ワッハッハ』って過ごしていくのかと考えた時に、いや、それは恥ずかしいと思ったんです」
意気軒昂な現役時代の自分だったら、そんな風に地位に安穏としていることをもっとも嫌ったはずだ。やりたいことがあれば自分で決め、躊躇せずにトライしていたはずだ。失敗も成功もすべて自分で受け止めて、凍てつく雪の世界で心根に火を灯し、スキーとともに生き抜いてきたのが荻原健司だったはずだ。
「草津の金物屋のセガレだったじゃねえか」
「選手として北野建設に入った時は『指導者はいらない』と言って、ひとりでやる道を選んだ。昔ながらの日本の“スポーツ人像”、スポーツ人に対するイメージがあるとしたら、自分は絶対に違う路線で行くぞと思っていたんです。ちょっと人とは違うぞと。結局は一緒なんだけど(笑)。でも、人とは違うぞっていう気持ちだけは常にあったように思います。
それが何に対する反骨かというと自分自身かな。当時も今もそう思います。お前は辛く厳しい方に行くのか、穏やかな陽だまりとぬるま湯の中にいるのか。どっちで行くんだと自分に問われている感じ。いやいや、俺はこっちのイバラの道のはずだと」
それはスキーヤー、スポーツ選手としてのあり方に限らない。
「群馬の草津温泉で生まれて、実家は金物屋ですよ。それがかしこまって、今じゃスポーツ指導者ですとか、会社の部長クラスになりましたとかね。そりゃねえだろうって。俺の原点は草津の金物屋のセガレだったじゃねえかと。それは常に忘れちゃいけないなって思います」