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50歳荻原健司、肩書きを捨てて再出発。
小さなジャンプ台で蘇ったあの感覚。
posted2020/07/20 11:00
text by
雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph by
Tomosuke Imai
少年はいつしか大人になっていく。
わがままで強情でどうにも意地っ張りだったはずなのに、訳知り顔でうなずきながら自分を納得させる術を覚えていく。
それでも、ふと思うことがあるはずだ。本当の自分ってこんなだったっけ? と。
荻原健司は50歳を間近にして、それを思った。
「自分らしく生きるって本当にこれだったかなと随分考えました。もっと自分らしいやり方があるんじゃないかと。特に去年の4月、5月頃はずっと考えていましたね」
1992年アルベールビル五輪のノルディック複合団体戦、当時22歳の荻原は、日の丸のフェイスペイントを施して大舞台に臨み、前日から準備していた日の丸を振って白い歯を見せながらゴールを一番で駆け抜けた。メダルセレモニーではシャンパンファイトで思いっきりはしゃいだ。自由奔放に五輪を楽しむさまは当時の日本人のスポーツ観を覆すような画期的なものだった(だから一部では批判もされた)。
スポーツ界を見渡せば、Jリーグは開幕を翌年に控えたところで、野茂英雄はガラガラの藤井寺球場にいた。スポーツ選手がまだアスリートとも呼ばれていない時代だった。若くして堂々と世界と渡り合い、ずけずけモノを言う荻原についたあだ名は“新人類”。
そんな男が50歳を前に自分を見つめ直し、悩んだ末に会社に辞表を出した。
上村愛子、渡部暁斗、竹内択。
2002年に現役を退いた後、荻原は'10年から北野建設のスキー部GMとしてトップ選手の指導に携わっていた。同部にはモーグルの上村愛子のような世間一般にも名の知れた選手がいて、荻原の後継者であるノルディック複合の渡部暁斗やジャンプの竹内択といった五輪メダリストも輩出した。はたから見れば、指導者としての経歴は申し分なかったように思える。
ただ、スキー板に貼りつく春の雪のように、荻原の心にはぬぐえない感情があった。