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駒野友一と松井大輔の6月29日。
南アフリカW杯が僕らを変えた。
text by
細江克弥Katsuya Hosoe
photograph byAsami Enomoto
posted2020/06/29 11:30
2014年撮影。涙を流したパラグアイ戦から4年後、所属していた磐田の練習場で「逆バージョンや」と笑う駒野(右)と松井。
「松井は終わった」と言われても。
ザッケローニ体制下では'11年アジアカップでメンバー入りしたが、本心では「帰りたくて仕方がなかった」と振り返る。
「W杯で世界と戦った後に、アジアとやってもしょうがないなって。監督が替わってチーム全体に新たなモチベーションが生まれましたけど、僕自身はそうじゃなかった。気持ちを持続させることの難しさを痛感していたし、所属チームでいろんな問題を抱えていたこともあって、とてもサッカーに集中できる状況じゃなかった」
南アフリカW杯終了後の松井は、出場機会を求めて移籍を繰り返した。'10年9月にはフランスのグルノーブルからロシアのトム・トムスクヘ、'11年7月にはまたフランスのディジョンヘ移籍。翌'12年9月にはブルガリアのスラビア・ソフィアヘと渡り、さらに1年後の'13年夏にはポーランドのレヒア・グダニスクに新天地を求めた。しかし、監督との相性の悪さや契約問題のこじれ、さらにケガも重なって第一線から姿を消すことになる。南アフリカであれだけの存在感を示した松井の名前は次第に聞かれなくなり、逆に「松井は終わった」とする声さえ聞こえてくるょうになった。
「まあ、気にならなかったですね。僕が何をやっているかを知ってもらえなくてもいいし、何を言われても関係ない。ただ、ポーランドに行った時は燃え尽き症候群からようやく解放されて、もう一度、結果を残したいと思えるようになりました。だから、向こうに骨を埋める気持ちでやっていたんですよ」
サッカーが好きな自分を取り戻したい。
南アフリカで燃え尽きた気持ちをもう1度奮い立たせるまで、実に3年もの時間を要した。まずはトレーナーと契約して体を作り直すことから始め、本来のキレを取り戻すことに努めた。磐田の加藤久GMから「日本に戻ってこないか」と誘いを受けたのは、ポーランドで半年ほどの時間を過ごし、それなりの結果を残し始めた頃のことだった。
「ジェビロには昔から知っているコマちゃんや(前田)遼一がいる。それに、年齢的にも『まだできる』と思えるタイミングで、もう1度日本でプレーしてみたかった。松井大輔を見たいと言ってくれるファンもいると思ったし、最終的には、サッカーが好きな自分を取り戻したかったんです」