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19歳のロナウジーニョを観た幸せ。
強烈に光った“ガウショ”は瞬く間に。 

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徳原隆元

徳原隆元Takamoto Tokuhara

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posted2020/06/25 11:00

19歳のロナウジーニョを観た幸せ。強烈に光った“ガウショ”は瞬く間に。<Number Web> photograph by Takamoto Tokuhara

まだあどけなさが残る19歳のロナウジーニョ。頭角を現わす前は“ガウショ”というニックネームがついていた。

野心家ルシェンブルゴの誤算。

 2000年1月下旬、オリンピック本大会の出場権を賭けた南米予選はブラジルのパラナ州ロンドリーナ市で開催された。大会方式は10カ国がふたつのグループに分かれてリーグ戦を行い、それぞれの上位2カ国が決勝リーグに進出。再び総当たりで対戦し、1、2位が本大会の出場権を得ることになる。

 本来ならホストカントリーとなり、絶対優位の状況で大会に臨めたはずのブラジルオリンピックチームだったが、実際はフル代表とともに調子が上がらない状態にあった。当時、チームの指揮を執っていたのはフル代表とオリンピックチームを兼任するバンデルレイ・ルシェンブルゴ。ピッチ内外に渡って選手を厳しく管理し、徹底したチーム戦術を武器に国内クラブで好成績を収め、満を持してその座に就任した野心家の指揮官だ。

 ルシェンブルゴの就任当初は、究極的にシステム化されたスタイルによって、新たなセレソン像を打ち出そうとする彼の挑戦に、国民の期待は高かった。だが、自信家だったルシェンブルゴの誤算は、ブラジル代表という集合体は世界中のクラブ、代表チームにあって、選手の個人能力がチーム戦術を凌駕する例外的な集団だったことである。

理解を示そうとした若きカナリア軍団。

 個性派が揃う至高の集団を輝かせるのに、ルシェンブルゴが標榜するシステマティックなサッカーは通用しなかった。選手たちが持つハイレベルな個人能力を活かす必要性に目を逸らし、自らの理論に固執して、その正当性を証明するための実験場と化したセレソンからは本来のプレーが消え、'02年の日韓ワールドカップ南米予選の戦いで低空飛行を続けていた。

 フル代表ほど重症ではないものの、トップの不振に連鎖するようにオリンピックチームもまた、好調と胸を張って言えるような状態ではなかった。

 ただ、フル代表と比較してオリンピック代表はチームを構成する選手たちの年齢が若かったことが幸いした。選手として発展途上の彼らは、ルシェンブルゴが課す難解な戦術にも理解を示そうとする姿勢が強くあった。対して指揮官もセレソン低迷の原因のひとつと考えられる選手への支配欲が、世界的なスターとはまだ言えない若者たちには湧き起らなかったようだ。チーム内の混乱や対立の溝はフル代表よりも浅く済んでいた。

【次ページ】 挑発するコロンビアに9得点。

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