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ホン・ミョンボに挑み、敗れ、学んだ。
「韓国型サッカー」とは何なのか?

posted2020/06/24 11:40

 
ホン・ミョンボに挑み、敗れ、学んだ。「韓国型サッカー」とは何なのか?<Number Web> photograph by YONHAP NEWS/AFLO

W杯に4大会連続出場、韓国代表史上最多136キャップを誇るスーパースターのホン・ミョンボ。大韓サッカー協会理事として活躍中。

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吉崎エイジーニョ

吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki

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YONHAP NEWS/AFLO

 この人をテレビで初めて見たのは、1990年イタリアW杯でのことだった。筆者は中2だった。子どもの頃にインプットされた記憶というのはやはり鮮烈だ。

 かつては世界の舞台での韓国のプレーぶりから、日本の姿を想像するよりほかなかった、ということもある。遠くにいる人。だから、'99年に初めて日立台で実物を見た時はオーラに圧倒されたものだ。

 しかし書き手たる自分にとっての重要な「現実」はサバイバルだった。2001年あたりから、かなりゴリゴリとこの人に突っ込んでいった。

 20代だった筆者は「ここで言葉を引き出してこそ勝負できる」と決め込んだのだ。

記者として認識されてるけど、好まれてないな……。

 この年の柏レイソルは、ホン・ミョンボのほか、ファン・ソンホン、ユ・サンチョルの韓国の最高峰3人が一堂に集い、日本の若いタレントと融合させる歴史的な試みがあったのだ。

 しかし、チームはシーズン序盤で躓いた。勝って気分がいいことばかりではない。ホンに対して、取材エリアではこんなことを聞いたりもした。

――ご本人が後方からボールを入れるとき、あまりにもファン・ソンホン選手ばかりを狙いすぎという指摘もあります。

 もはやこちらの質問に立ち止まることもない。下を向きながら目も合わせず、ホンはこう答えた。

「パスコースは、ソノンイ(ファン・ソンホン)のところにしかありませんよ。映像をもう一回見直してください」

 こういうことが幾度もあった。

 認識されているんだろうけど、あまり好まれてはいないな。これが正直なところだった。

 日韓共催となった'02年W杯前、'97年から'01年に日本でプレーした韓国サッカーの「永遠のリベロ」。日本語学習の努力や、当初は新幹線移動に驚いたことなど、エピソードは随分知られるところが多いのではないか。ここでは彼の「その後」を筆者独自の目線からお伝えしたい。

【次ページ】 '90年イタリアW杯以降、常にW杯と五輪に絡む人生。

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