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稲葉篤紀と宮本慎也の2000本安打。
「献身」で積み上げた18年の軌跡。 

text by

鷲田康

鷲田康Yasushi Washida

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photograph byL:Takahisi Shimizu/R:Naoya Sanuki

posted2020/06/16 11:30

稲葉篤紀と宮本慎也の2000本安打。「献身」で積み上げた18年の軌跡。<Number Web> photograph by L:Takahisi Shimizu/R:Naoya Sanuki

稲葉が打った6日後、宮本も2000本安打に到達。奇しくも同じ1976試合目での偉業達成だった。野村克也から学んだ「献身」の姿勢が実を結んだ。

1年目の稲葉が驚いた選手とは。

 一方の稲葉は'95年6月21日の広島戦でプロ初打席初本塁打を放ち、1年目から打撃に関しては野村も特別な目を向ける存在だった。

「プロに来て衝撃的だったのは土橋さんですね。土橋さんは僕が学生のときから結構、試合に出ていたんですけど、その選手がいつも最後まで黙々と練習をしている。入った頃のヤクルトはみんなそんなムード。プロはこんなに練習するんだ、と思いました」

 稲葉は当時を振り返る。

「その土橋さんに色んなアドバイスももらった。走者を還すだけでなく次にどうつないでいくのか。ただ単にヒットを打つだけがバッティングではない。そういうことも土橋さんの姿を見て学びました」

侍ジャパンの主将となった宮本。

 入団当初の「自分勝手の塊」が、野村という監督の下、ヤクルトというチームの中で「献身」というキーワードを手に入れた。

 そのことが実は選手として長くグラウンドに立ち続けることにつながり、宮本と稲葉の2人に2000本という数字への道を開く大きな要因となる。この2人が、国際大会で日本代表を率いる監督から求められてきた役割が象徴的だった。

「プレーでも普段の行動でも、あれほど献身的にフォア・ザ・チームに撤せられる男はいない。自分にも厳しいから他人に対しても厳しくできる。そういう性格をすべて調べて、キャプテンは宮本しかいないと長嶋さんに進言した」

 こう語るのは脳梗塞で倒れた長嶋茂雄に代わり'04年のアテネ五輪で日本代表の指揮をとった中畑清だった。

 この大会で長嶋ジャパンの主将に就任した宮本は'06年の第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)、'08年の北京五輪と3度の日本代表チームのまとめ役として奔走した。そして宮本にとっては最後のジャパンのユニフォームとなった北京五輪で、初めて代表入りを果たしたのが稲葉だったのだ。

【次ページ】 原辰徳が考えた「4番稲葉」

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