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稲葉篤紀と宮本慎也の2000本安打。
「献身」で積み上げた18年の軌跡。
posted2020/06/16 11:30
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph by
L:Takahisi Shimizu/R:Naoya Sanuki
宮本慎也と稲葉篤紀がプロ生活をスタートした1995年のヤクルトは、野村克也が監督に就任してすでに6年目を迎えていた。
チームは'92、'93年とリーグを連覇するなど成熟期を迎えつつあり、野村の掲げたID野球の下で古田敦也、飯田哲也、橋上秀樹、土橋勝征らの若手野手が順調に成長。野村も60歳前後と年齢的に脂が乗りきった時期でもある。巨大戦力を誇るライバル・巨人に対抗するチーム作りに執念を燃やし、選手育成に妥協はなかった。その厳しさは、テレビ画面で見せる好々爺然とした今の姿からは想像もできないものだった。
「入団してまず古田さんに言われたことが、“このチームは相手と勝負する前にベンチと勝負しなくちゃいけない”ということでした」
宮本は振り返る。
「監督がグラウンドに来ると、その張り詰めた空気感だけで姿を見なくても分かった。それぐらい怖い存在でした」
入団したての選手は、みんな自分勝手。
必ず見られている――。
野村の視線を強く意識する中で宮本も稲葉も選手としての土台を築いた。そして、野村から徹底的に叩きこまれたのが、チームへの「献身」ということだった。
「入団したての選手なんて、最初はみんな自分勝手なものなんですよ」
宮本は言う。
「僕も稲葉も1年目なんて、とにかくヒットが打ちたい、結果を出したいっていう欲求の塊。でも、ずっとそんな考えだったら今の僕らは恐らくなかったと思います」
宮本は入団直後から野村に“守るだけ”という意味で「自衛隊」と呼ばれ、定位置をとった'97年も打順は「8番」が多かった。
「チームが勝つために何ができるのか? 打席では常に監督からそのことを問われていたし、それをやらなければ使ってもらえなかった。そのうちに自分でもそれが当たり前だと思うようになっていったんです」