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五輪の狭間で揺れ動いた先駆者。
スケートボーダー瀬尻稜とは?
text by
吉田佳央Yoshio Yoshida
photograph byYoshio Yoshida
posted2020/06/05 11:00
国内で無敗を継続していた2011年。優勝が決まりホッとした表情を浮かべる瀬尻稜。
「『スケートボードの正義は楽しむことなんだ!』って」
――そうした中で2016年にはスケートボードがオリンピックの追加種目になることが正式に決まり、世間から急激に注目を浴びるようになりました。
「そうなんですけど、自分は正直あまり気にかけていなかったんですよね。ちょうど中学生の頃にコンテストに感じていたプレッシャーを乗り越えて、海外の大会を回ってた17、18歳くらいの時なんですけど、今までと大会の捉え方とか感覚が変わってきた頃だったんです。それまでプレッシャーばかりだったのが、海外で大会に出てるスケーターは皆楽しそうでいいなというのを感じてたんですね。
皆で集まって楽しく滑ってコンテストが盛り上がって、終わったらパーティーして友好を深めて、ストリートで撮影して映像や写真を残して帰るという感じなんですけど、そこには今まで自分が感じてた、勝ちたい! 勝たなきゃ!! っていうプレッシャーは一切なくて、皆が本当にリラックスして楽しんでいたんです。
ちょうどそんな時期にオリンピックが決まったから、自分としてはそこを目指すよりも、『スケートボードの正義は楽しむことなんだ!』っていう思いの方が強くなりすぎちゃって、その時はどうしてもオリンピックを目指します!! という気持ちにはなれなかったんですよね。
それに、大会に勝つための練習をしていた中学生の自分もはっきり覚えていて、正直そこには辛かった思い出もいっぱいあったから、それを続けるのから逃げたかったっていう気持ちもあったかもしれません。だから、今はただより楽しく滑って、いい映像を残したいって気持ちだけが強くなっていた時期だったと思います。
でも今思うと、ちょうど高校生ってひねくれやすい年頃なので、そういうのもあったのかもしれませんね」
「10代で今のような環境がほしかった」
――そこには孤軍奮闘して道を切り開いてきた瀬尻選手にしかわからない葛藤があったのでしょうね。では、今は日本勢がチームとしてまとまって海外遠征していますが、それをどう思いますか?
「シンプルにいいなと思いますよ。海外に連れていってくれる人がいて、現地でもケアしてくれる人がいて、自分はスケートボードをすることだけに集中できる環境で大会に出場できるのは、若い子にとってはとても大きいことだと思うので。自分が10代の頃にもそういう環境が欲しかったなと素直に思います。
自分の場合は海外に呼んでもらってはいましたけど、チケットを出してくれる大会もあれば、出場権利はあるから自分で来てっていうところとかバラバラだったので、そういった細かいところも自分が運営側とやり取りして出場していましたから。ただ当時は若かったし当然わからない部分も多かったので、一緒に行ってたカメラマンとかに聞いたりしながら手探りでやっていた部分はありますね。昔は特にそういうのが多かったです」