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五輪の狭間で揺れ動いた先駆者。
スケートボーダー瀬尻稜とは?
text by
吉田佳央Yoshio Yoshida
photograph byYoshio Yoshida
posted2020/06/05 11:00
国内で無敗を継続していた2011年。優勝が決まりホッとした表情を浮かべる瀬尻稜。
「海外のコンテストでは余計なプレッシャーがなかった」
――その後、国内のコンテストには出場せず海外を中心に回るようになります。
「そうですね。海外のコンテストに出るようになったきっかけは2008年にAJSAで優勝した事なんですけど、当時のAJSAは選手の海外派遣に力を入れていて、そこで『Mystic Cup』っていうWCS(WORLD CUP SKATEBOARDING)主催のコンテストに出場することができたんです。結果は22位でセミファイナル敗退だったんですけど、それがきっかけでWCSのコンテストを中心に海外を回るようになっていったんですよね。
今とは出場につながるシステムが違うからなんとも言えないんですけど、当時の自分は1回出て、その次もと続けるうちに顔を覚えてもらって、自然と呼ばれるようになりました。もちろん当時は今みたいに協会がバックアップしてくれて、日本チームで行くということはないので、FacebookとかSNS経由で連絡が来て、個人でやり取りしながら単独で行くことばかりでしたね」
――そうして2013年にはその『Mystic Cup』、『Far'n High』、『Jackalope』とWCSの国際大会で3連勝という、当時誰も成し遂げていない偉業を達成しました。
「あれは正直うまくいきすぎたところもあると思うんですけど、初めて海外のコンテストに出た頃に比べると経験を積んで緊張もしなくなってきたし、高校生になって身体も大きくなっていたから、やっていることは大きく変わらないんですけど、見栄えが良くなってたのかなと思います」
――では国内と海外ではコンテストに出る心境に違いはありますか?
「人それぞれだと思いますけど、自分はありますね。初めて出た『Tampa AM(歴史ある世界最高峰のアマチュアコンテスト)』と『STREET LEAGUE(五輪予選でも最もポイントが高い業界最大のコンテスト)』はめちゃくちゃ緊張しました(笑)。
あの頃は海外に積極的にチャレンジしているスケーターは本当に少なかったし、今までビデオやYouTubeで見てたスケーターと同じ舞台で戦うということが、緊張につながって硬くなってしまったのかもしれないですね。
その反面、当時は国内だと負けなしだったので、海外だとそういった余計なプレッシャーがない分気楽でいれた一面もあります」
「オリンピックを目指す気持ちにはなれなかった」
――『STREET LEAGUE』は当時日本人どころかアジア人として初めての出場でしたもんね。
「出たのは2015年のバルセロナの大会だったんですけど、この頃は『STREET LEAGUE』もアメリカのプロスケーターだけではなく、いろいろな人にチャンスを与えようという流れになってたんですよね。
この年の秋にスケートボードがオリンピックの追加提案種目になることが決まったので、もしかしたら水面下でそういう動きがあったのかもしれません。それで『STREET LEAGUE』からアジアのスケートボード連盟宛てに2つの出場枠があるから選手を選んでほしいという連絡があって、出ることができました。その時は海外で頑張ってきて良かったなと思いましたね」