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40年前のインタビューから探る、
山下泰裕JOC会長「残念だ」の裏側。
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph byKYODO
posted2020/04/21 11:40
モスクワ五輪ボイコットに向けて状況が揺れるなか、1981年4月29日、山下泰裕は全日本選手権で圧勝した。
ボイコットしたモスクワ五輪の「五輪特集」。
1980年8月5日発行の「Number8号」をめくってみたのは、3月30日に東京五輪の1年延期が発表されてから数日後だった。
この号は「オリンピック大特集」。
日本がボイコットしたモスクワ五輪の開幕前日に発売された号で、その中に当時、東海大学大学院生だった“幻のモスクワ五輪代表”、山下会長のロングインタビューが掲載されていた。
モスクワ五輪ボイコットを巡る当時の動きを振り返ると、発端は東西冷戦真っ最中の'79年12月25日にソビエト連邦がアフガニスタンへの侵攻を開始したことである。
これを受け、'80年1月に米国のカーター大統領が「モスクワ五輪の開催地変更・延期・中止」案を表明し、西側諸国を巻き込んでボイコットムードが醸成されていく。
日本政府は2月1日に米国への同調を表明した。
「とにかく行けるんだと自分に言い聞かせていた」
するとその日を境に、山下会長は揺れる気持ちの中で稽古を積む毎日を余儀なくされていったという。それは数カ月間、続いた。
JOCがボイコットを決めたのは5月24日だった。
Number8号のインタビューで、山下会長は当時の心の持ちようを、このように語っている。
「(当初は)アメリカがボイコットしても、ぼくらに影響がないということはないにしろ、結局はオリンピックに行けるんじゃないかと信じていたわけなんです」
「2月の初めぐらいからオリンピック参加について色々と言われていましたね。それで、気持ちがグラついて、どうしても練習に力が入らないものですから、とにかく行けるんだと自分に言い聞かせていたんです」
「議論はあるけれど、とにかく行けるんだという気持ちでずっとやっていたわけです。(中略)意識的にそういうふうに考えを向けていたんでしょう。動揺しないように」