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40年前のインタビューから探る、
山下泰裕JOC会長「残念だ」の裏側。
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph byKYODO
posted2020/04/21 11:40
モスクワ五輪ボイコットに向けて状況が揺れるなか、1981年4月29日、山下泰裕は全日本選手権で圧勝した。
蟹挟を掛けられ、腓骨を骨折。
しかし、ハッキリしない日々はまだ続いた。
こうして迎えた運命の5月24日午後5時30分。山下会長は、全日本体重別選手権兼モスクワ五輪最終選考会に出るために訪れていた福岡のホテルで、JOCがモスクワ五輪不参加を決めたことを新聞記者から知らされた。
たまたまロビーで一緒にいた祖父の顔色が変わったのが見えた。そして、翌日の試合で蟹挟の技を掛けられたときに、腓骨を骨折した。
「ぼくの強がりかもしれませんけれど、今でもあれは精いっぱいの試合だったと思っているんです。(中略)精神的には非常に落ち込んでいたんです。
それで、ぶざまな試合をしないためにはどうしたらいいかとその夜は考え込みました。そうしたら結論は一つしかなかったです。
それは今までの試合より、二倍も三倍も気合を入れていくしかないだろうということです」
4年後のロサンゼルス五輪で金メダル。
モスクワ五輪不参加となった後の目標は、世界選手権へと切り替わり、さらには、「立ち技でも寝技でも両方とも」、「少しのチャンスも逃さない柔道」という理想を追い求めるようになっていった。
そして、4年後の'84年ロサンゼルス五輪で、金メダルを手にした。
モスクワ五輪不参加から40年が経った。
今はJOC会長として、自身が人生を懸けて挑もうと思うきっかけとなった'64年東京五輪の再現となる舞台を準備する立場にいる山下会長は、どのような思いから「残念」と言ったのだろうか。
組織運営上のことなのか。その日も稽古にまい進しているに違いなかった選手の顔が浮かんでいたのだろうか。