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頑固な名将がセリエA最優秀監督に。
ガスペリーニは師匠直系の攻撃主義。
text by
弓削高志Takashi Yuge
photograph byGetty Images
posted2020/04/18 11:30
クロトーネ、ジェノア、そしてアタランタ。ガスペリーニが率いたクラブはどれも魅力にあふれている。
ジェノア就任後の師弟対決で。
2006年の夏、2部にいた古豪ジェノアからお呼びがかかる。セリエA昇格という重い達成目標が課されていた。
このとき、ウディネーゼ監督だったガレオーネは、プレシーズンマッチで弟子ガスペリーニの挑戦を受け、返り討ちにしたことがある。だが、勝敗より親心で弟子の置かれた状況が気になった。
「戦力としてはうちの方が断然上だったから、勝つのは難しくなかった。それよりジェノアのチーム状態がひどい有様で、それが心配になった」
気位の高いガスペリーニは、今でもガレオーネとそう頻繁に連絡をとったりしない。指導者として独り立ちしている以上、安易に助言を求めるような真似はすまい、と考えるからだ。ただし、弟弟子のアッレグリやジャンパオロは不器用な長兄とちがい、彼らはシーズン中でも遠慮なく助言を求め、それ故に師から可愛がられている。
だが、ガスペリーニもジェノアという歴史あるクラブに挑む初年度だったこともあって、さすがに師匠に意見を求めた。
助言が効いたのか、その後ガスペリーニは見事にチームを修正。ユベントスとナポリが居並び“史上空前の豪華なセリエB”と呼ばれた2006-07シーズンの2部を戦い抜き、A昇格を勝ち取った。
FWミリートとMFチアゴ・モッタを擁した2008-09シーズンには5位という好成績を収めた。気鋭の指導者として、行く末はビッグクラブかと注目を浴びるようになっていた。
インテルではわずか5試合で……。
大きな挫折を味わったのは、2011年夏に呼ばれたインテルだ。わずか5試合を指揮しただけで、石もて追われるようにミラノから去るしかなかった。
当時のインテルは、CLとスクデット、コッパ・イタリアの3冠を前年に成就し、燃え尽き症候群にあった。フロントが画策していたビラスボアスやビエルサといった国際的に知名度のある監督たちの招聘が破談になり、彼らの代役としてガスペリーニが呼ばれた。
戦術家である彼は、理論さえ正しければ選手はついてくると信じていたのか、持論の3バックを一刻も早く導入しようと気を急いた。
だが、性急な戦術改造は長年4バックが染み付いた重鎮選手たちの反感を買い、最初から望んだ人選ではなかったからマッシモ・モラッティ会長(当時)もフロントも新監督を擁護しなかった。クラブのOBでもない上に現役時代の名声もないから、ファンも新監督にそっぽを向いた。
インテルに味方は誰もいなかった。
師ガレオーネが危惧した通り、ガスペリーニは孤立無援で純粋すぎた。このときに抉られた傷はいまも深い。