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志村けんさんと伝説の「10・8」。
長嶋茂雄と桑田真澄の“ケンちゃん”。
text by
鷲田康Yasushi Washida
photograph byKeiji Ishikawa,KYODO
posted2020/04/03 11:50
3月29日に逝去した志村けんさん(左)。「10・8」決戦に勝利し、抱き合う巨人の桑田と村田。桑田にとって「ケンちゃん」といえば志村さんのことだった。
「一番、大きな存在が志村けんさんだった」
「何であのときに志村けんさんの名前が出てきたのか……自分でもわからないんです。
でも小さい頃からドリフ(ザ・ドリフターズ)のテレビは大好きでよく観ていましたし、志村さんのファンでしたから。やっぱり僕の中では『ケンちゃん』といえば、一番、大きな存在が志村けんさんだったということなんでしょうね」
1968年(昭和43年)生まれの桑田さんは、小学生から中学生時代がまさに「8時だョ!全員集合」の全盛時代。
「東村山音頭」やカトちゃんケンちゃんのヒゲダンス、志村さんの「カラスの勝手でしょう」などの名物コントやギャグを見ながら子供時代を過ごしてきた“ドリフドンピシャ世代”なのである。
高倉健さんのたっての願いで「鉄道員」に出演。
もちろんスクリーンの大スターだった高倉健さんの偉大さも知ってはいる。
ただ、テレビっ子世代にとって身近な「ケンちゃん」といえばカトちゃんケンちゃんのケンちゃん、志村けんさんを置いて他にはいないということなのだ。
まさに桑田さんと桑田さんの世代の人々にとって「ケンちゃん」といえば「志村のケンちゃん」だったということだ。
志村さんとはそういう人だったのである。
この後の1999年に公開された映画「鉄道員(ぽっぽや)」では主演の高倉健さんのたっての願いで志村けんさんが出演。福岡から北海道に移住してきた炭鉱労働者の役柄でその演技を高く評価された。
そして山田洋次監督の「キネマの神様」への出演が決まっていた中での突然の悲報で、この「鉄道員」は志村さんにとっては唯一、単独で出演した映画作品となってしまったのである。
2014年には「高倉の健さん」が亡くなり、そして志村けんさんもまた、あまりに突然に逝ってしまった。
桑田さんが語ってくれた「10・8決戦」前夜の名古屋のホテルでのエピソードを思い出すと、高倉健さんはもちろん、改めて志村さんが人々の心に残した笑いと存在の大きさを痛感させられる。