マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
千丸剛を「本物」と感じた者として。
野球を人生の全てにしてはいけない。
text by
安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byHideki Sugiyama
posted2020/02/06 11:40
2017年夏、中村奨成を擁する広陵を倒して甲子園の頂点にたどりついた花咲徳栄。千丸剛はそのまさに中心選手だった。
ひとつのことに打ち込みすぎると危ない。
ひとつことに打ち込む。
日本には、そんな美しい言葉がある。
この国の「学生スポーツ」は、まさにそれを実践する最も象徴的な存在の1つになろう。
これと定めた道を、脇目も振らずに邁進する。
悪いことではないが、それが“過ぎる”と害が人をむしばむことにもなる。
これは、野球部という組織の問題かもしれないし、個人の資質が関わっている場合もあって、ケースバイケースであろう。
「打ち込む」という意識が、それ以外のすべてを否定したり、排除したり、そうした偏りを招いてはいないだろうか。
10代、20代の若い日には、ひとつことに打ち込むことも大切だが、同様に、それだけに偏り過ぎないための「興味の広がり」があってよい。
ほかの事をする暇があったら、バットを振れ、バットを振ろう。
そうした息苦しさは、必ず何かの拍子に思いもよらないパワーで噴出する。それが、若者の「怖さ」であることを、私も体感で知っている。
「自分だけの時間帯」が大切。
むしろ、すべきことを終えた時に待っている「自分だけの時間帯」を持とう。大事にしよう。
私の学生時代、たとえば、とんでもなく飛ばすヤツがギターの名手だったり、クリーンアップを打つヤツが意外な「詩人」だったり、バッティングピッチャーとして貢献していたヤツがプラモデル組み立ての名人だったり……今より「全体練習」のボリュームがあったせいか、自分の時間が“自立”しているチームメイトが多かった。
私は、子供の頃にあるきっかけがあって、落語と芝居が好きだった。
深夜のテレビ中継に、眠さをこらえながら見入ったものだし、今のように定期的にオフのある時代ではなかったが、急にやってくるたまの休みには、寄席や劇場に足を運んで楽しんだ。