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アルディレスもハリルも信頼した男。
浦和・羽生通訳の5カ国語“操縦術”。
text by
杉園昌之Masayuki Sugizono
photograph byMasayuki Sugizono
posted2019/08/13 11:30
エヴェルトン(右)と肩を組む羽生通訳。現在は浦和でブラジル人選手のサポートを担当している。
生まれは南米アルゼンチン。
羽生氏はアルゼンチンの首都ブエノスアイレスから南へ60km下ったラプラタという街で生まれ育った。ハイスクールを出て、工業デザインを学ぶために大学に進学した。当然、スペイン語はネイティブ。日本人移民の両親が、家では日本語を使っていたこともあり、故郷の言葉も何不自由なく操れる。
日本の文化は家にあった多くの本から学んだ。19歳で初めて日本を訪れたときも、大きなカルチャーショックは受けなかった。
日本のサッカー界で通訳を始めたのは、ひょんなきっかけから。当時、清水エスパルスはオズワルド・アルディレス監督のスペイン語通訳を探していた。そんなとき、帰国して静岡に住んでいたアルゼンチン時代の日本語学校の恩師の紹介で20歳の羽生青年が面接を受けることに。サッカー経験はなかったが、知識は備えていた。すぐに採用された。
「日本人男子がみんな野球のルールを知っているように、アルゼンチンで育てば、サッカーのことは誰でも知っているもの。プレー経験がなくても、問題なかったです」
頭が真っ白になった“デビュー戦”。
1996年5月1日、旧国立競技場でのほろ苦い“デビュー戦”は忘れもしない。あの日は雨が降っていたが、試合後の監督会見には大勢の記者が詰めかけた。アルディレス監督が話した後にマイクを握った瞬間、すべての記憶が飛んだ。隣を見て、すぐに同じことを聞き直したのは言うまでもない。
「1発目で失敗したので、次からは楽になりましたね」
アルディレス監督は、言葉遊びが好きな人だった。伝えたいことをストレートに表現せず、必ずと言っていいほどひねりを入れた。
「コルドバ出身でしたから。アルゼンチンの大阪のような街なんです。言葉で笑わせるのが好きな人が多くて、彼もその典型でした」
アルゼンチンではとんちの効いた表現でも、日本語にそのまま訳すと面白みが消えたり、意味が通じないこともある。羽生氏にとって、そこをいかに日本語に変換するかがチャレンジであり、楽しさでもあった。通訳する上でのベースを築いたと言ってもいい。
「料理に例えると、日本で食べる中華もイタリアンも、日本人の口に合わせて、少しアレンジしていると思います。本来の旨味、個性を損なわないようにしながら食べやすくする。醤油を隠し味で入れるようなもの。通訳も同じ。日本で受け入れられやすい言葉に置き換えています。そのためには、互いの文化を理解しておかないといけません」