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PL学園から大阪桐蔭へ――。
高校野球の勢力と文化の変化。
posted2019/07/25 12:00
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph by
Hideki Sugiyama
スポーツが描き出す時代のコントラストは鮮明だ。今回、Number高校野球特集で、PL学園と大阪桐蔭という強豪校で3年間を過ごした選手たちを巡った。長い歴史の中で覇権を握り合った2つの名門がどこで転換期を迎え、その内実がどのようなものだったかをうかがい知ることができた。
現在、BCリーグの栃木ゴールデンブレーブスに所属する西岡剛は2002年度卒業の大阪桐蔭OBだ。彼はまさに高校野球の王者が移り変わろうとする瞬間を、球児として感じていたという。
「大阪桐蔭が甲子園に数多く出場するようになる前はPL学園が圧倒的でした。僕も打倒PLを目指していた。ただ、僕が2年の時に、PLが部内の問題で出場停止になって、そのタイミングで大阪桐蔭は勢いに乗っていきました」
2001年、PL学園は部内暴力によって夏の大会を出場停止となった。そして、その翌年、大阪桐蔭は3年生になった西岡を擁して11年ぶりの甲子園出場を果たし、その後、春夏合わせて17回の出場(うち全国制覇7回)を誇る名門へと躍進していく。
一方、PL学園は教団の方針が変化していったこともあり、それ以降は5回(最高はベスト4)の出場にとどまり、2016年の活動停止へと向かってゆっくり下降線をたどっていく。まさに21世紀の到来とともに、明暗が分かれていったことになる。
大阪桐蔭がモデルにしたのはPLだった。
ただ、西岡が語ったように、それ以前はどこの強豪校もPL学園のような強さを目標にしていたのは事実だ。30歳で大阪桐蔭野球部を率いた西谷浩一監督は、PL学園の土台を支えていたと言われる伝説のスカウト・井元俊秀さんに食い下がり、まだ無名の頃から井元さんのようなフィールドワークで全国の中学生を見に行っていたという。
また、かつては大阪桐蔭の寮にもPL学園の「研志寮」と同じように、1年生が上級生の身の回りの世話をする「付き人制度」があったという。つまりあらゆる部分において、強さのモデルはPLだったのだ。
「僕らの頃はかなり精神的に追い込むような厳しい練習、厳しい指導がありましたよ。それはそういう時代だったからです。ただ、今もそれと同じではおかしい。あくまでOBとしての見方ですが、そういう変化に西谷さんは対応しながら選手を、教育されてきたんじゃないでしょうか。もちろん選手に真剣に向き合ってくれるという部分は昔も今も変わらないです」
西岡はかつて自分が過ごした時代と、今、常勝となった大阪桐蔭の空気の違いを感じており、時代の温度に対応していったことにその強さを見ている。