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PL学園から大阪桐蔭へ――。
高校野球の勢力と文化の変化。 

text by

鈴木忠平

鈴木忠平Tadahira Suzuki

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photograph byHideki Sugiyama

posted2019/07/25 12:00

PL学園から大阪桐蔭へ――。高校野球の勢力と文化の変化。<Number Web> photograph by Hideki Sugiyama

甲子園での成績も、OBのプロでの活躍度も、現在の高校野球界で大阪桐蔭の存在感は圧倒的だ。

かつてのPLのスタイルは誤りなのか。

 では、かつてのPLのスタイルが誤りだったのかといえば、そう断じることはできない。

 まだPL学園野球部ができたばかりの1960年代、2代目教祖が教団の名を広めるために野球に力を入れ始めた頃、野球部専用の「研志寮」が生まれたという。全国に広がった教会員からの情報をもとにしたスカウト制度と相まって、そこから野球部は強くなっていった。

 黄金期に研志寮の寮長を務めた谷鋪哲夫さんはPLの強さを示した象徴的なシーンとして、1978年の全国制覇を挙げる。

「決勝戦だったかな。ピンチを背負って捕手の木戸(克彦・のちに阪神)が監督の指示を受けてマウンドの西田(真二・のちに広島)のところに行くわけですよ。当時の監督は何種類もサインを決めているような方でしたから、そういう指示を伝えにいくわけですね。ただ、木戸はそこで西田に『監督さんが、これが終わったら夏休みやって言うてるぞ!』と、これだけ伝えたそうです」

 これが伸び伸び野球の公立校ならわからなくもないが、全国から精鋭を集めた強豪校での逸話なのだ。

「押し付けるだけでは上手くならない。そういう力がまさにPLの求めていた強さだったと思うんです」

 奇跡的な逆転劇の連続で頂点に立ち、「逆転のPL」と言われたチーム、その土台にあったのは厳しさから生まれる自主性だったという。

選手同士のルールに、大人は関わらない。

「夏合宿の時、私はよく父兄の差し入れでもらったスイカを丸ごとひとつずつ選手に渡したんです。それをどうするか、どう使うかは自由。先輩と差し出すのか、仲間と分け合うのか、後輩に与えるのか、自分で冷蔵庫にしまっておくのか、そういう人間教育のやり方でした」

 監督やコーチはもちろん、住み込んでいる寮長も選手同士のルールには立ち入らない。研志寮には大人の手が入らないという独自性があった。ただ、優勝旗が増えるにしたがって、プロ予備軍・野球学校として門をたたく若者が増えるにしたがって、寮内の上下関係はエスカレートしていったのかもしれない。

「昔は(教祖の墓である)奥津城の掃除を3年生がやっていた時代もあったんです。ただ、だんだん抑えつけるだけ、耐えるだけになっていったのかもしれません」

【次ページ】 徳を積む、感謝の気持ちというPL教団の教え。

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