酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
桑田、松坂、斎藤、そして吉田輝星。
甲子園スターのプロ初登板とその後。
posted2019/06/13 17:30
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kyodo News
6月12日、一軍初登板を果たした吉田輝星は、まだ投げないうちから汗をかいているように見えた。
おそらくこの1年の自身の境遇の変化には、目もくらむような思いがしていただろう。彼は1年前には、まだ好事家にしか名前を知られていない地方の高校生に過ぎなかったのだ。昔はこういうのをシンデレラ・ストーリーと言った。
実は甲子園をわかせた大スターが、そのまますんなりとNPBの大スターになった例はそれほど多くない。甲子園の優勝投手、準優勝投手のNPBデビュー戦を振り返ってみよう。
元祖はカミソリシュートの平松。
<平松政次(岡山東商→日本石油→大洋)>
1965年春の甲子園の優勝投手。この年の第1回ドラフト会議で、中日からドラフト4位で指名されるも入団拒否、社会人に進み、翌'66年の第2回ドラフトの二次で、2位で大洋に指名され、'67年シーズン中に入団。
初登板は、1967年8月16日、川崎球場での広島戦。先発して5回2被安打2奪三振無四球、自責点1と好投するも、勝敗つかず。最初に対戦したのは、のちに広島初優勝時の監督となる古葉竹識で、初奪三振は藤井弘から奪った。
投手としては極めて珍しいことに、この年の平松は背番号「3」をつけていた。長嶋茂雄に憧れていたからだ。
この年は3勝に終わるが、カミソリシュートを武器に通算201勝を挙げる大投手となる。甲子園の優勝投手でプロ200勝を挙げたのは平松と戦前の野口二郎(中京商→法政大→セネタース・翼・大洋・西鉄、阪急:通算237勝)しかいない。巨人キラーとして知られた平松は、2017年に野球殿堂入りを果たす。
ちなみにバルセロナ五輪で岩崎恭子の金メダルを実況したNHKの名アナウンサー、島村俊治さんは、岡山県大会での倉敷商の松岡弘(のちヤクルト)と平松の熾烈な投げ合いを実況して「スポーツアナとして生きていこう」と決心した、と聞いたことがある。