ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
“熊殺し”ウィリー・ウィリアムス、
殺気と緊迫感に満ちた猪木戦の真実。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byMoritsuna Kimura/AFLO
posted2019/06/13 17:00
40年前、プロレスというものを取り巻く社会の雰囲気はまったく違うものだった。その事実がなんとも面白い。
猪木の肋骨とウィリーの右ヒジの交換。
試合は「寝技は5秒以内」という猪木に不利なルールが課せられたこともあり、豪快な蹴りや突きを繰り出していくウィリー優勢で進んでいく。2ラウンドに一度、両者リングアウトの裁定が下るが、立会人である梶原一騎の裁量で延長戦に突入。
そして第4ラウンド、リング外で双方のセコンドが入り乱れた乱闘が起こる中、最後は猪木が場外で腕ひしぎ十字固めを決めたまま試合終了。猪木は肋骨にヒビが入り、ウィリーは腕十字で右ヒジの腱を痛めたことによる両者ドクターストップの引き分けとなった。あまりにも両陣営が熱くなりすぎた“戦争”を終わらせるには、こういう落としどころしかなかったのだろう。
こうして結局、決着はつかなかったプロレスと極真空手の頂上対決。このような不透明な結末は、今の目で見ればナンセンスに思うかもしれない。しかし、この物騒な一戦が残した功績はあまりにも大きい。
K-1、そして総合のブームにつながった。
この11年後、'91年6月4日・代々木第二体育館で、空手の正道会館が佐竹雅昭vs.ウィリー・ウィリアムスをメインに、「正道会館vs.USA大山空手5対5マッチ」という大会を開催。
このウィリーを目玉に起用した“他流試合”は、明らかにかつての『四角いジャングル』や、猪木vs.ウィリーを意識したものだ。そして、この大会の成功が、'93年の「K-1」誕生につながっていく。
2001年8月には、新日vs.極真の21世紀バージョンのようなかたちで、“猪木イズム最後の継承者”藤田和之vs.ミルコ・クロコップをはじめとした、“猪木軍vs.K-1”の闘いが勃発。これが2000年代の一大格闘技ブームにつながっていった。
“熊殺し”ウィリー・ウィリアムスという、実力とキャラクター、そして幻想を兼ね揃えた存在は、プロレス界と格闘技界の両方に大きな影響を与えたのだ。