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“熊殺し”ウィリー・ウィリアムス、
殺気と緊迫感に満ちた猪木戦の真実。 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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photograph byMoritsuna Kimura/AFLO

posted2019/06/13 17:00

“熊殺し”ウィリー・ウィリアムス、殺気と緊迫感に満ちた猪木戦の真実。<Number Web> photograph by Moritsuna Kimura/AFLO

40年前、プロレスというものを取り巻く社会の雰囲気はまったく違うものだった。その事実がなんとも面白い。

極真の開いた大会に、新日本が噛み付く。

 そんなウィリーと猪木が対戦する一戦は、単に個人の闘いを超え、新日本プロレスと極真空手の威信を懸けた決闘の様相を呈するものとなったのだ。

 新日本と極真の因縁のそもそもの発端は、猪木vs.ウィリー戦の5年前にさかのぼる。'75年に極真会館は『第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会』の開催を発表。その際、『少年マガジン』誌上に「相撲、柔道、ボクシング、プロレス……どんな格闘技の挑戦も受ける」という宣言を掲載すると、そこに新日本プロレスが噛み付いたのだ。

 その時のことを元・新日本プロレス営業本部長で、“過激な仕掛け人”と呼ばれた新間寿は次のように語っている。

「当時、新日本は『プロレスこそ最強』を謳っていたからね。『プロレス』という名前を出された以上、無視することはできない。ところが、挑戦を求めておきながら、その大会は掴みが禁止された『極真会空手ルール』だと言う。

 こっちは組んでなんぼのレスラーだからね、『冗談じゃない! 全員反則負けでいいから、腕でもヘシ折ってやれ!』っていうことで、アントニオ猪木、坂口征二以下、所属選手13人分の大会出場申込書を書いて、私が池袋の極真本部道場に持っていったんですよ」

 これに慌てたのが極真側だ。せっかくの第1回世界大会が、プロレスラーにめちゃくちゃにされてはたまらないと、後日大山館長が直々に新間と会談を持ち、新日本と極真は和解。事なきをえた。

プロ空手王者に勝った猪木に極真が挑戦。

 しかしトップ同士は和解しても、一度は極真にケンカを売ってきた新日本に対し、極真門下生および関係者の間で敵愾心が生まれることとなった。そして、その火種は消えることなく残り、2年後にまた燃え上がることになる。

 '78年4月、アメリカで猪木が全米プロ空手協会王者ザ・ランバージャック・ジョニー・リーを下すと、極真ニューヨーク支部長の大山茂が、弟子のウィリー・ウィリアムスを引き連れ、「プロ空手ごときに勝っただけで、格闘技世界一を名乗ることは許さん」と、猪木に挑戦を表明したのだ。

【次ページ】 梶原一騎、少年マガジンを巻き込んで……。

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