ひとりFBI ~Football Bureau of Investigation~BACK NUMBER
若き前園に楢崎、レオナルドに相馬。
横浜Fvs.鹿島の激闘を覚えているか。
posted2019/05/06 10:00
text by
北條聡Satoshi Hojo
photograph by
J.LEAGUE
セレソンの「本気」が、Jリーグの歴史に刻まれる名勝負の引き金だったか。
アトランタ五輪が開催された1996年のことだ。同年のJリーグは2ステージ制ではなく、ホーム・アンド・アウェーによる2回戦総当たり方式を採用。従ってチャンピオンシップは開催されていない。
だが、天下分け目の大一番を思わせる試合があった。
横浜フリューゲルスと鹿島アントラーズの一戦だ。5月18日、舞台は東京・旧国立競技場。リーグ戦の第15節だから、前半戦のラストマッチでもあった。
しかも、この時点で1位が横浜F、2位が鹿島という首位攻防戦。鹿島が勝てば順位が入れ替わる。いや、名勝負が生まれる条件はそれだけではなかった。
偉大なセレソンが数多くピッチに。
横浜Fと鹿島、それぞれに偉大なセレソン(ブラジル代表)が、いた。
ただのセレソンではない。わずか2年前のアメリカ・ワールドカップで王国ブラジルを世界の頂点へと押し上げた男たちだ。横浜Fのジーニョ、鹿島のレオナルドとジョルジーニョである。
当時ジーニョは28歳、レオナルドは26歳、ジョルジーニョ31歳。キャリアの最盛期にあったと言ってもいい。いまでは考えられないことである。さらに両軍の得点源となったエバイール(横浜F)とマジーニョ(鹿島)も元セレソンという豪華さ。キャスティング自体が、すでに普通ではなかった。
実はもうひとり、現役セレソンが横浜Fにいた。
2年後のフランス・ワールドカップで闘将ドゥンガ(当時ジュビロ磐田)とペアを組むボランチのセザール・サンパイオだ。
本来なら、鹿島の攻撃の基点であるレオナルドと丁々発止の攻防を展開していたはずである。だが残念ながら、出場停止によって、この日のピッチに立てなかった。
それでも、代役を務めた原田武男がレオナルドを密着マークで苦しめ、鹿島の攻撃力を殺いでいる。ピッチを縦横に動き回る鹿島の強力な攻撃陣をマンマーキングで封じ込めるのが横浜Fを束ねる指揮官オタシリオの狙いでもあった。