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平成日本サッカーの夜明け(1)
1992年の西野朗と韓国の高い壁。
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph byAFLO
posted2019/04/27 10:30
アトランタ五輪出場権を獲得したサウジアラビア戦の川口能活。彼らの強化は1992年ユース代表から始まっていた。
ハーフタイム、西野が声を荒げて……。
ところが、前半のパフォーマンスはひどく低調なのである。0-0でロッカールームへ戻ってきたのは、かなりの幸運に恵まれたからだった。
西野は声を荒げて選手を叱責する。
「もっとできるはずだろう! 勝負へのこだわりを見せろ!」
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チームが覚醒した。後半だけで3ゴールを叩き出し、UAEを無失点に封じたのだった。
のちに西野はこう語っている。
「グループリーグが0-2だったので、3-0で勝ったことに大きな意味があった。地元のUAE相手に最後の力を振り絞って3点取ったところに、選手たちは肉体的にも精神的にもかなり逞しくなったと感じた。選手の姿勢には胸を打たれたし、堂々の3位だったと思う」
オフトジャパンがアジアを制する直前の話。
ユース代表がアジアのトップ3に食い込んだのは、1980年以来12年ぶりのことだった。西野と山本のもとで戦ったGK川口能活、DF白井博幸、服部年宏、MF伊東輝悦、FW城彰二は、'96年(平成8年)のアトランタ五輪のピッチに立つ。アトランタ五輪に出場できなかった平野孝は、川口、服部、伊東、城とともに'98年のフランス・ワールドカップのメンバーに選ばれた。
はるか中東の地でユース代表が日本サッカーの可能性を示した直後に、ハンス・オフトが率いる日本代表はアジアカップを制する。Jリーグ開幕に先駆けたサッカーブームがここから到来していくのだが、ユース代表の戦いぶりがオフトのチームを刺激したところはあった。
日本サッカーに夜明けを告げ、アジアから世界へ飛び出すきっかけとなったという意味でも、'92年のユース代表は平成の日本サッカー史に欠かせない登場人物なのである。
(文中敬称略、第2回は28日公開)