サッカー日本代表PRESSBACK NUMBER
平成日本サッカーの夜明け(1)
1992年の西野朗と韓国の高い壁。
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph byAFLO
posted2019/04/27 10:30
アトランタ五輪出場権を獲得したサウジアラビア戦の川口能活。彼らの強化は1992年ユース代表から始まっていた。
情報が漏れてでも韓国遠征を強行。
絶対的な時間の無さを埋めるために、西野は思い切った強化策を打ち出す。4月に韓国へ遠征したのである。サッカー協会の内部には、「予選のライバルに手の内を明かすのか」との反対意見があった。実際に、韓国の監督は日本の練習グラウンドに通いつめ、ビデオカメラを廻した。情報は確実に漏れてしまった。
しかし、帰国した西野は手ごたえをつかむ。
「自分たちよりワンランク上の韓国の大学生チームと試合をするなかで、韓国のサッカーに対するイメージがつかめた。自分たちの通用するプレーとしないプレーが分かり、修正点もはっきりした。韓国の食事や水になじんだことも、選手たちには非常にプラスになった」
果たして、5月23日の韓国戦で、日本は1-0の勝利をつかむ。相手の攻撃を懸命にしのぐだけでなく、ミスを突いてゴールへ迫るシーンも作り出した。韓国の選手が終盤に足を痙攣させるなかで、活動量でも相手を凌駕した。
ユース代表が韓国に勝つのは15年ぶりだった。90分以内の勝利となると、この年代では日本サッカーの歴史で初めてである。釜本邦茂のいたチームも、奥寺康彦を擁したチームもつかめなかった勝利を、西野のチームは手にしたのだった。
2日後の中国戦は0-0で引き分け、日本は9月下旬開幕の最終予選進出を果たす。だからといって、ワールドユース出場への期待が高まるわけではない。
高校生に招集を拒否される日常。
6月、7月は活動がなく、8月に国内で国際大会に出場し、9月に1週間の国内合宿が行われただけだった。現在なら代表強化において必須となる予選開催地か周辺国での事前合宿も、西野のチームには用意されない。
選手の招集も簡単ではなかった。高校のサッカー部の監督には、大切な公式戦を主力抜きで戦いたくないとの思惑がある。最終予選が行われる9月は、冬の高校選手権の都道府県予選と重なる可能性が高い。
西野が招集要請の連絡をすると、「コンディションを落としているので、ウチの選手はユース代表には貢献できない」と言われることがあった。遠回しの拒絶である。「ウチの選手はケガをしているので出せない」と説明され、慌てて高校へ向かうと普通に練習をしていることもあった。
1次予選で韓国に勝利したといっても、アジアで勝ち抜くことにリアリティを持てない時代である。高校サッカー部側の言い分にも、理解を示すことはできた。西野が直面した悩みは、先駆者ゆえのものだったと言える。