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愛されている明治大学ラグビー部、
日本一奪還までの22年と田中監督。
text by
大友信彦Nobuhiko Otomo
photograph byNobuhiko Otomo
posted2019/01/15 17:00
紫紺の軍団、明治大ラグビー部にとって22年ぶり13度目の大学日本一。名門復活が遂に果たされた。
ラグビー環境が激変する中で。
だが、ラグビーを取り巻く環境はこの時期、激しく変動していた。1995年に世界ラグビーの統括団体IRB(現ワールドラグビー)はアマチュア規定を撤廃。プロ化の波は選手だけでなく、コーチングの分野、情報を急激に進化させた。その波は日本の大学ラグビーにも及んだ。
1997年度に明大を破った関東学院大は、その後ニュージーランドから招いたマレー・ヘンダーソン氏がコーチングスタッフに入ったことで、越えられなかったカベを飛び越えた。
慶大ではオーストラリアでコーチングを学び、若き日のエディー・ジョーンズに師事した林雅人がヘッドコーチとしてラグビー先進国の分析、データ活用を持ち込み、慶大を1999年度の優勝に導いた。
低迷していたライバル早大には2001年から清宮克幸監督が就任し、やはりエディー・ジョーンズがサントリーに持ち込んだコーチングエッセンスを学生に授け、黄金時代を築いた。
そして帝京大は、岩出雅之監督のもと、豊富なフルタイムのコーチングスタッフが学生にきめ細かい指導を施していた。
負の文化を払拭した丹羽前監督。
明大が著しく弱体化したわけではないだろう。ただ、他校(上位校)の急激な進化に取り残されたのは間違いなかった。監督空位の体制は3シーズンで終わり、2000年度からはOBが監督を務めた。だが、OB会と大学当局の意向は必ずしも一致せず、OB会も一枚岩ではなかった。
そして、勝てない事実は選手のモラルを低下させ、「下級生から上級生に話しかけてはいけない」などの無意味な悪習だけが引き継がれるなど、チームには負の文化がこびりついていた。
前監督の丹羽政彦は、2013年に着任した当時、寮の廊下に紫紺のジャージーが落ちていたことに衝撃を受けたという。私生活から立て直さないといけない――丹羽監督は寮に住み込んで部の再建に尽力した。