Jをめぐる冒険BACK NUMBER
ベルマーレ伝説の広報・遠藤さちえ。
最初はほぼストーカー、そして……。
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph byAtsushi Iio
posted2018/10/26 10:30
ルヴァンカップ決勝前、曹監督とともに笑顔の遠藤さちえ。彼女とベルマーレの幸せな関係は続いていくはずだ。
4人をW杯に送り出した1998年。
そんな遠藤にとって思い出深いのが、'97年に加入したワグネル・ロペス、のちの呂比須ワグナーである。
「ちょうど帰化するタイミングだったから、いろんな手続きをサポートしたり。無事に帰化して日本代表に選ばれたときは、自分のことのように嬉しかったです。でも、最終予選の最中にブラジルにいたお母さんが亡くなって……。ロペスの家族とは喜びも悲しみも一緒に経験しました」
遠藤が入社して3年目の'98年6月にはフランス・ワールドカップが開催され、ベルマーレからは中田英寿、呂比須ワグナー、小島伸幸、洪明甫(ホン・ミョンボ)が出場した。ワールドカップが終わると、中田がセリエAのペルージャへと移籍する。
「ベルマーレから4人もワールドカップに出場したことも、ヒデがイタリアに旅立って行ったことも、本当に誇らしく感じましたね」
親会社の撤退、主力選手の放出。
だがしばらくして、夢のような時間に終わりを告げる出来事が起きる。親会社のフジタが経営不振に陥り、撤退せざるを得なくなったのだ。
有志の間でベルマーレの存続運動が起き、クラブの消滅こそ免れたが、主力選手を放出し、若手主体で'99年シーズンを戦うことになった。
遠藤の脳裏に焼き付いているのは、'98年最後の練習後の風景だ。
「大のおとなが涙を流し、抱き合って、どこにもぶつけられない悔しさを抱えてベルマーレから去っていく様子を、呆然と見ていました。どうなるんだろうって。寝ても覚めてもベルマーレのことばかり考えちゃうし……」
だが、不安とは裏腹に、別の想いが芽生え始めてもいた。
「ベルマーレって本当にいいチームだったんですけど、地域貢献という点ではどうなのかなって……。もっとできることがあるのに、っていうジレンマがずっとあったんです。だから、すごく悲しいけど、これは変わるチャンスかもしれないなって」
選手もフロントの必死さを感じていた。
そんなとき、救世主が現れる。現会長の眞壁潔である。
平塚商工会議所青年支部主催の「Jリーグホームタウンサミット平塚」に関わっていた眞壁は、地元選出の国会議員で、親交のあった河野太郎の要望を受け、ひと肌脱ぐことを決めたのだ。
「眞壁さんになんの得があるわけでもないのに、地元のクラブをなくしてはいけないという想いで奔走してくださった。その姿を見ていて、真っ暗闇の中にいるんだけど、一筋の光が見えた気がして」
眞壁と河野に牽引されるように、スタッフも、チームも、がむしゃらに走った。若手主体のチームはなかなか勝てなかったが、熱いゲームを続けた。
「結局J2に落ちてしまうんですけど、本当にいいチームだったんです。しばらく後になって、ヤス(高田保則、当時20歳)が『フロントが必死だったから、頑張ろうと思えた。なんの不自由も感じなかった』と言ってくれて、嬉しかったですね」