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ナントに復帰したハリルホジッチ。
恩師が振り返る“問題児”との日々。
text by
占部哲也(東京中日スポーツ)Tetsuya Urabe
photograph byGetty Images
posted2018/10/24 17:30
衝撃的な電撃解任から数カ月後、ハリルホジッチは再びテクニカルエリアで熱き血潮をたぎらせている。
よく監督室で議論し合った。
ナントスタイルを確立した知将は、プライドの塊だったストライカーに監督としての資質を感じ取っていた。
「選手時代、ヴァイッドは私の部屋に来る際、他の選手に『監督室に行ってくる』ではなく『オフィスマジックにちょっと行ってくる』と伝えていた。それは監督がチームにマジックをかける人間だと、選手時代から思っていたという証だ。
そう考えると、彼は監督がどれだけチームにミラクルを起こせる存在かということを分かっていた。それを思うと、指揮官の素質はあったのだと思う」
日本代表監督時代は、守備戦術にこだわるイメージだったが、ナント時代は意外にも違ったという。
「よく監督室に来たね。攻撃システム、特にアタックの仕方について議論をした。ユーゴスラビア時代に培った、フランスではやっていない私の知らない攻撃システムもあった。
ヴァイッドとの議論からは、たくさんのことを学んだ。それを実際の試合でも使ったよ。私が『いいアイディアだね。やってみよう』となると、ヴァイッドも『おっ。監督が使ってくれた』と嬉しくなる。それで、彼の性格も変わっていったね」
スオードさんが柔らかな心で包み込み、ハリルの自信と才能は、フランスでも開花した。1982-83シーズンの優勝は、監督とエースの共同作業でもあった。
「ブルチャガの方が……」
きっと美しい記憶のはず――と思ったが、スオードさんは首を横に振った。隣にいた妻は、それを見て含み笑いしながらうなずいた。
「あの頃、毎日帰宅の道中、脚が重かった。『明日、ヴァイッドをどうしようか』ってね。同じFWでも、(1985~92年に在籍したアルゼンチン代表)ホルヘ・ブルチャガは、選手としても人間としても一番好き。マラドーナよりも使い勝手の良い選手。私にとってはチーム全体を動かせる、変えてしまう選手だった」
でも、だ。教師にとっては優等生よりも手の掛かった生徒の方がかわいく、脳裏に深く刻まれるもの。深いしわが刻まれた顔には、そう書いてあった。
――動いて、適応する。それこそがゲームの神髄である――
今年3月。恩師がロシアW杯を直前に控えた日本代表監督の弟子に送る言葉として、蒼いユニフォームに書き込んでくれた。