サッカー日本代表「キャップ1」の男たちBACK NUMBER
元代表・吉原宏太から西野ジャパンへ。
「だからすぐ次に夢をつくらないと」
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph byJFA
posted2018/06/19 11:00
コパ・アメリカでA代表としてプレーする吉原宏太。当時、W杯での連続決勝T進出国だったパラグアイに0-4で負けた。
「“街の快挙”ととらえてくださった」
和歌山の初芝橋本高時代は「ユース代表候補に入るが、メンバーには残れない」という存在だった。
「同じ関西のFW吉田(孝行/元ヴィッセル神戸)さんの壁がなかなか高くて……」
1995年の高校選手権では「Jリーグクラブへの就職活動」と宣言して、コンサドーレ札幌への転身が決まっていた東芝サッカー部への入団を勝ち得た。ユース代表の候補落ちの経験から、「見てもらってこそ、評価される」ことを痛感していたからだ。
代表チームとの縁は、1999年のシドニー五輪1次予選から始まった。途中出場からゴールを重ね、一気に名を知られる。「(中村)俊輔が“決めるだけ”というボールもたくさん出してくれたんでね」と笑う。
「その時、“代表”というもののすごさを知ったんです。札幌の方々がまるで自分のことのように喜んでくださって。関西から来て4年目だったんですが、そんな自分に起きた出来事でも“街の快挙”ととらえてくださった。
オリンピック代表ではありましたが、新しく出来たコンサドーレからはじめての選出だったということもあって、すごく喜んでいただけたんです」
「どうやったら生き残れるのか」をまず考えた。
自身も、札幌での成長があったからこそ五輪代表に入れたと思っている。
「高卒後、すぐに“プロ”になれたわけではなかった。僕も含めた東芝の社員選手と、新たに加わるプロ選手半分くらいが横浜の磯子で合宿をしてその後に札幌に行くという状況でした」
プロ選手とは給料から宿のクラスまですべての待遇が違った。そこで吉原は周囲を観察し、考えることに取り組んだ。
「どうやったら生き残れるのか。そしてターンやシュートなど、1つひとつのプレーをどんなやりかたでやっているのか。研究ですよね。そこまでは身勝手に好きなプレーばかりやっていましたから」
結果、身長170センチの吉原がたどり着いたのは「シンプルにプレーする」というスタイルだった。