サッカー日本代表「キャップ1」の男たちBACK NUMBER
元代表・吉原宏太から西野ジャパンへ。
「だからすぐ次に夢をつくらないと」
text by
吉崎エイジーニョ“Eijinho”Yoshizaki
photograph byJFA
posted2018/06/19 11:00
コパ・アメリカでA代表としてプレーする吉原宏太。当時、W杯での連続決勝T進出国だったパラグアイに0-4で負けた。
「A代表の方に行って欲しい」
「A代表の方に行って欲しい」
1999年6月下旬、オリンピック代表の招集中に、協会のスタッフからそう言われたような覚えがある。
“A代表の方”という表現は、当時、フィリップ・トルシエ監督がフル代表と五輪代表を兼任していたためのものだ。
「あの状況でなければ、自分が呼ばれることはなかったでしょう。中山(雅史)さんが大会直前に負傷し、替わりの選手を呼ぶことに。自分よりもっといいFWはいたと思うんですが、Jリーグが中断期間だったんです。だから自分にお呼びがかかって」
協会のスタッフから一度札幌に戻って荷造りをしてくるように言われた。「少なめにまとめてほしい」との要望も付け加えられていた。
「現地が想像より寒かったらしくて。長袖のユニフォームで試合をして、相手と交換していたら足りなくなったようなんです……」
ユニフォームの“運び屋”の役割も任されたのだった。
現地に着くと中山雅史が付けていた背番号9が。
パラグアイに向かう旅程が、吉原にとっては最初の難関だった。北米でトランジットが必要な計35時間のフライト。ユース時代は代表に選出されたことなどなかったから、21歳にしてはじめての飛行機での長距離移動だった。
「何をしたらいいか分からなくて……最近のような携帯ゲーム機もありませんから。同乗してくださった大仁さん(大仁邦彌/当時の日本代表団長、後の協会会長)の持ってきていた週刊誌をひたすら読むという……何度も繰り返して読んだから、一字一句覚えそうになったんですよ」
ウブでもあった吉原が現地に着くと、中山が着けていた背番号9とホテルの部屋を引き継いだ。ちょっとだけ「嬉しいな」と思った。
遅れてきた自分をチームメイトは優しく迎えてくれた。ホテルのすぐ近くのピッチでなんとか少しでもコンビネーションを築こうと練習に取り組んだ。その練習場のピッチがなぜかすごく斜めに傾いていたことも覚えている。