ゴルフボールの転がる先BACK NUMBER
宮里優作は世界のどこでも楽しそう。
米軍をヒッチハイクした小学生時代。
text by
桂川洋一Yoichi Katsuragawa
photograph byYoichi Katsuragawa
posted2018/05/04 08:00
宮里優作の人間性を悪く言う人はいない。だからこそ、ゆっくりとでも今の場所までたどり着いたのだろう。
キャディを「味噌汁できたぞう」と起こして。
学生時代、宮里はエリート街道を突き進んだ。学生タイトルを総なめにし、プロ転向後も日本ツアーの予選会(QT)を受験することなくシードをつかんだ。20代前半には米ツアーにスポット参戦。QTにも挑戦した。
当時、米国で連れ添ったのは東北福祉大の同級生で、現在は松山英樹のバッグを担ぐ進藤大典キャディである。学生時代の延長よろしく2ベッドルームで一緒に生活した。
宮里は「朝飯は僕が作った。日本食スーパーなんかに行って、納豆にご飯……。寝ている大ちゃんを『味噌汁できたぞう』なんて言って起こしたりしたんだ」と笑う。
2003年の夏場、米ツアーの3試合に出場していずれも予選落ちしたが、7月のウィスコンシン州での試合では、週末に上位を争った丸山茂樹の組について歩いた。
「曲がらないなあ、アイアン上手いなあって」と、その目に焼き付けたのは大観衆に囲まれてプレーする日本人の姿。進藤キャディは「結果は出なかったけれど、優作に落ち込む様子はなかったんですよね」と振り返る。目の前にひろがる世界は、希望に満ちていた。
「アメリカで、海外でやりたかった。いつの日かと思ったけどね」
若くして描いた夢の実現は、簡単ではなかった。宮里が日本で初優勝を手にするまでにはそれから10年、国のトップを走る選手になるまでにはさらに数年を要し、いま、ようやくスタートラインに立っている。
小学生の時から、米兵をヒッチハイク。
意外と水があっている――と言う転戦生活。宮里は外国で日々、簡単なインタビューなら通訳を交えずに英会話で応じることも多い。「言い方は良くないかもしれないけれど、僕に“外国人コンプレックス”みたいなものはない」。その姿勢は、自身のルーツも影響しているという。
宮里3きょうだいが育った沖縄県国頭郡東村。小学生の時、自宅から約2kmの距離にあった学校からの帰り道で、在日米軍の車をヒッチハイクして帰ったことがあった。
「ホントは(校則で)ダメなんだけどね(笑)。ストップ! ストップ! って言って止めると、乗せてもらえるの。降りる時も『ストップ! ココで! サンキュー! バイバイ!』みたいな感じで」
空き時間を持て余した軍人と、放課後に草野球やキャッチボールを一緒にしたことも何度もあったし、もちろん生活圏に彼らの子どもたちもいた。