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ジャーナリスト後藤健生が目撃した激闘の記憶 

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後藤健生

後藤健生Takeo Goto

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posted2018/04/20 10:00

ジャーナリスト後藤健生が目撃した激闘の記憶<Number Web> photograph by KYODO

中国代表キャプテンと試合前にペナントを交換するキャプテン前田秀樹。

川淵監督は20歳前後の若手選手を集めた。

 しかし、そのときの銅メダル獲得によって少年層でのサッカー人口が急増。ペレのブラジルが優勝した1970年のメキシコW杯がテレビ放映されたことによってテクニック重視の指導を目指す指導者が全国に現れた。ネルソン吉村をはじめとする日系のブラジル人選手が来日したことも大きな刺激になった。それから10年ほどが経過し、日本にも個人技に優れた若い選手たちがようやく育ち始めていたのである。

 スペインW杯予選を前に強化部長の川淵三郎が暫定的に監督に就任。川淵は将来を見据えて、そうしたテクニックのある若手選手を代表に呼んだのだ。

 こうして招集された20歳前後の若い選手たちは出発前の壮行試合でベテラン中心の「日本代表シニア」に完敗を喫し、そのままトレーニングの機会も十分に与えられないまま香港に乗り込んだ。そんなチームがどこまで通用するのか……。選手を選んだ川淵監督を含めて誰も確信は持てていなかった。

若手中心の即席チームが……。

 だが、その若いチームは中国戦でも、その後の北朝鮮戦でも、すばらしいパフォーマンスを見せた。東アジアの強豪を相手に日本選手のテクニックが上回り、中盤でボールを持つと奪われることはなかった。画期的なことだった。

 中盤はともに攻撃的センスに溢れた風間八宏と金田喜稔が組み立て、戸塚哲也がトップ下。金田と高校(広島県工)時代からコンビを組む木村和司は当時は右ウィングとしてプレーしており、また、この大会でその精度の高いFKを初めて披露した。また、都並敏史は当時は「左」ではなく右サイドバックを務めており、やや年齢が上でキャプテンの前田秀樹がリベロとして後方から目を光らせた。

 同点を狙って中国ゴールを脅かし続けた日本代表だったが、木村のFKはポストに嫌われ、FW横山正文のループシュートも中国のGK李富勝にクリアされ、とうとう日本代表は1点を返すことができず、一次予選は黒星スタートとなってしまった。

【次ページ】 徐々に現地で人気になっていった日本代表。

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