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ジャーナリスト後藤健生が目撃した激闘の記憶

posted2018/04/20 10:00

 
ジャーナリスト後藤健生が目撃した激闘の記憶<Number Web> photograph by KYODO

中国代表キャプテンと試合前にペナントを交換するキャプテン前田秀樹。

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後藤健生

後藤健生Takeo Goto

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KYODO

ワールドカップスペイン大会アジア予選(香港 香港政府大球場)

日本 0-1 中国

 目を瞠るような光景が繰り広げられていた。

 1980年12月末から翌81年初めにかけて香港で開かれたスペインW杯アジア一次予選でのことだった。日本のほか中国、北朝鮮など6カ国が参加し、1位のチームだけが最終予選に進むことができる。

 そのグループリーグ初戦で日本代表は中国と対戦していた。開始7分に容志行のミドルシュートが決まって中国がリードしたのだが、その後は日本がスピードとパワーに勝る中国の激しい当たりをかいくぐって中盤を支配。ポゼッションでは、日本がはるかに上回っていたのだ。

日本サッカーの「冬の時代」だった。

 今だったら、当たり前の光景かもしれない。

「ボールポゼッションでは上回る」というのは、男女、年代を問わず、すべてのカテゴリーに共通する日本代表のストロングポイントだ(そして、常に決定力不足が問題とされる)。

 しかし、1970年代までの日本代表は、韓国や中東勢相手はもちろん東南アジア諸国との試合でもボールテクニックで劣っており、相手にボールを持たれる時間の方がはるかに長かったのだ。日本は一生懸命守って前線にボールを蹴り込んで走ってつなぐしかなかった。

 1970年代前半までは不世出の天才ストライカー釜本邦茂にたまたまボールがつながれば欧州や南米の強豪相手にも打開の道が開けたのだが、その釜本はすでに代表から引退し、その後継者と目された奥寺康彦は1FCケルンと契約して西ドイツに渡ってしまっていた。

 いわゆる日本サッカーの「冬の時代」である。1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得して以来、日本はW杯でも五輪でもアジア予選を突破できないでいた。

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