サッカー日本代表 激闘日誌BACK NUMBER
ジャーナリスト田村修一が目撃した激闘の記憶
text by
田村修一Shuichi Tamura
photograph byShinji Akagi
posted2018/04/06 10:00
ワールドカップ初出場の夢が断たれ、ピッチに座り込むラモス瑠偉ら代表メンバー1人ひとりに声をかけてまわるオフト監督。
オフト監督を茫然と見送るだけだった。
試合の後、ホテルで表彰式とレセプションが行われた。出席して、各国のメディアに対応するのが記者としての最後の義務だと思った。
自室に戻り、気持ちを静めるためにルームサービスのコーヒーを頼み、何とか落ち着いてレセプションに臨んだ。カタール協会会長のスピーチが心に沁み、サウジアラビアをはじめとする海外メディアの質問にも、どうにか笑顔を作りながら答えることができた。
その晩のライブラリー(イスラム教の戒律が飲酒を認めないため、ホテルにあったバーは図書室の体裁をとっていた)でのことだったか、それとも翌日の帰国間際のことだったか、ある大先輩記者に話しかけられた。
記者になって最初に取材した大きな試合がローマ五輪(1960年)予選だった。突破を逃した日本代表監督に、食ってかからんばかりの勢いで糾弾する質問をしたと、彼は訥々と語った。
ああ、この人は怒っているのだなと思った。試合後の会見で、ものの1分も喋ったかと思うと、そそくさと引き上げていったハンス・オフト日本代表監督を、茫然と見送るだけだった私をはじめとする若い記者たちに対して。
「試合終了間際の日本ベンチを見たか?」
私も会見そのものに関しては、侃々諤々の議論が交わされるのだろうと思っていたから、普段オフトの周りを固めている記者たちが何も質問しなかったのは驚きだった。
彼らが私以上に茫然自失だったというのは、今はわかる。だが、当時は、オフトの近くにいる記者が、オフトの責任を追及すべきだと考えていた。それが日本代表を継続的に取材しながらの、あの頃の私の当事者意識だった。
「試合終了間際の日本ベンチを見たか。控えの選手が、ピッチも見ずに両手を組んでひたすら祈っていた。あのときの日本はそうだった」
ボラがこう語ったのはいつのことだったか。
「日本は経験が足りない」
彼はドーハでも、またそれ以前にも幾度となく私にそう語りかけた。