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車いす陸上界のエース・佐藤友祈。
「東京で金メダルを手にできれば」
posted2018/01/15 08:00
text by
城島充Mitsuru Jojima
photograph by
Naohiro Kurashina
リオで銀、世界で金を取ったエースは、競技場と職場を往復する日々を送る。
Number937号(2017年10月12日発売)から全文掲載します!
今年7月、ロンドンスタジアムで開催されたパラ陸上の世界選手権。車いす男子1500m(T52クラス)決勝のスタートラインに車輪を合わせたとき、佐藤友祈の胸にはさまざまな思いが去来した。
「このスタジアムに自分がいることに不思議な巡り合わせを感じると同時に、これまで支えてくれた人たちへの感謝の気持ちがこみあげてきたんです。その人たちの顔を一人ひとり思いうかべていたら、緊張や不安がすっと消えていきました」
今から5年前の2012年9月、同じスタジアムでロンドンパラリンピックが開催されていたとき、佐藤は失意の底にいた。
静岡県藤枝市で生まれ、高校卒業後に上京、コンビニやコールセンターで働きながら未来を模索していた21歳のとき、病魔に襲われた。膝から下に力がはいらなくなる症状が続いたあと、高熱を出して意識を失ったのだ。意識が戻ったとき、病室のベッドに寝かされた体は下半身の感覚を失い、左腕にも麻痺が残っていた。
「まさか、自分の体がこんな状態になるなんて思ってもいなかったのですごいショックでした。病名もわからなくて、現実を受け入れるのには時間がかかりました」
「4年後のリオ大会には、あの輝きの中で走る」
実家に戻ったが、ほとんどの時間を自室でテレビを見たり、パソコンやゲームをして過ごした。「脊髄炎」と診断され、障害者手帳が交付されたのは、23歳になる直前である。支給された補助金で車いすを購入したが、外出するのは、近くで暮らす祖母のところへ顔を出すときぐらいだった。
そんなある日、テレビをつけると、ロンドンパラリンピックの車いす陸上のニュース映像が目に飛び込んできたのだ。
「トラックを疾走する選手たちの美しい姿に感動しました。それまでは、車いすで生活している人は、介護をしてもらわないと何もできないと思っていました。だから、自分の将来を前向きに考えられなかったんです。でも、あの映像を見て、意識が変わりました。4年後のリオ大会には、あの輝きの中で走るって決めたんです」