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車いす陸上界のエース・佐藤友祈。
「東京で金メダルを手にできれば」 

text by

城島充

城島充Mitsuru Jojima

PROFILE

photograph byNaohiro Kurashina

posted2018/01/15 08:00

車いす陸上界のエース・佐藤友祈。「東京で金メダルを手にできれば」<Number Web> photograph by Naohiro Kurashina

急激な成長を果たした佐藤友祈。その視線は2020東京へと向かっている。

2大会連続出場・松永仁志との出会いが転機に。

 それからの佐藤は、限られた時間のなかで最も理想的なプロセスをたどったのかもしれない。「リオで走る」という夢を実現しただけではなく、T52クラスの400mと1500mで銀メダルを獲得したのだ。

 奇跡のような成功物語を紡ぐことができた要因は、佐藤自身が「誰にも負けない」と自負する集中力と、夢をあきらめない気持ちがひきよせた人との出会いである。

「このままでは、日本代表になるなんて無理だ。なにかを変えないと前に進めない」

 佐藤がそんな焦りに包まれたのは、地元で見つけた仕事のかたわら、自己流の練習を始めて半年が経ったころだ。記録が思うように伸びず、「根拠のない自信」が音をたてて崩れそうになったとき、一人のパラアスリートと出会う。

 当時、岡山の職業リハビリセンターで非常勤講師をしていた松永仁志である。高校時代のバイク事故で車いす生活になった松永は、北京、ロンドンとパラリンピック連続出場を果たす一方、パラアスリートとして自立する道を常に追い求め、日本の車いす陸上界をひっぱってきた一人である。

 佐藤は初めて会ったときから、17歳年上の松永に心酔した。「この人についていけば、速くなれる」と信じ、岡山に拠点を移したのだ。その決断が、始まったばかりの競技人生に幸運をもたらしていく。

健常者以上に仕事と競技を両立できている。

 松永が岡山の人材派遣会社「グロップサンセリテ」の正社員として新たな環境に飛び込むと、その翌年に佐藤も同社に正社員として採用された。そして同じく松永に師事する生馬知季とともに、車いすの陸上クラブ「WORLD-AC」を創設したのである。

「こんなに充実した形で仕事と競技活動を両立できるのは、健常者のトップアスリートでも珍しいと思います」

 選手とチーム監督を兼任する松永がそう語る環境が、4年前は陸上競技用の車いすを「レーサー」と呼ぶことさえ知らなかった青年をパラリンピックの表彰台へ導いてくれたのだ。そして初めての夢舞台は、どうしても超えなければいけない高い壁の存在も、佐藤に教えてくれた。

【次ページ】 頂点に立つために、何が足りないのかを考え続けた。

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