話が終わったらボールを蹴ろうBACK NUMBER
川崎相手にシュート1本だけの現実。
ガンバのDNA、未来は見えているか。
text by
佐藤俊Shun Sato
photograph byJ.LEAGUE PHOTOS
posted2017/11/22 07:00
川崎戦後、肩を落としサポーターのもとへ向かうG大阪の選手たち。公式戦11戦連続勝利なしという緊急事態だ。
西野監督の方針と戦略的強化がマッチした。
それでもガンバの選手たちはそのスタイルをクラブのDNAとして残すため、タイトルを本気で狙いに行った。優勝すれば周囲の揶揄も封じることができる。そもそも守備を固めるだけのサッカーはファンの心をつかむことができないし、日本サッカー界にとってプラスに働かない。何よりもやっている自分たちが面白くない。その意識が根底となって、ガンバの攻撃スタイルは育まれていった。
攻撃的サッカーが開花したのは、西野朗監督(当時)の方針と戦略的強化がマッチしたのも大きい。西野監督は一定の方向性を示しながらも選手の個性を尊重。彼らが伸び伸びプレーできる環境を与えた。
また選手補強もブレることなく、終始一貫していた。外国籍ストライカーについては日本サッカーを経験し、かつ移籍金が掛からない選手をメインにスカウティングした。アラウージョ、マグノ・アウベス、バレー、ルーカスらは、いずれも大きな仕事をやり遂げた好例である。
その一方で日本人選手は泥臭い仕事ができる選手、例えば渡辺光輝、明神智和、加地亮らを獲得してバランスを整えた。強力な外国人FWと中盤の質の高い日本人選手の融合によって、攻撃的サッカーを完成させていったのだ。
セホーン体制でJ2降格、長谷川体制での立て直し。
しかし、西野体制が10年の節目を迎え、ひとつの時代を終えるとチームビルディングの指針を失い、迷走した。
西野監督退陣後、2012年に招聘したセホーン監督はカウンターサッカーにかじを切ろうとしたものの、チームからの反発やライセンスの問題で、改革案自体が頓挫。彼らが3月に退陣するとクラブは従来のパスサッカーに戻そうとしたが、沈滞した流れを取り戻すことができず、その年にJ2降格した。
翌年から就任した長谷川監督は、失点が多かった守備を組織立たせるように守備練習を重ねた。守備ブロックを作り、サイドアタックで攻めるサッカーを徹底したのだ。J2では個々の選手の力が際立ったこともあり、優勝して1年でJ1復帰を果たす。