JリーグPRESSBACK NUMBER
浦和とACLは切り離せない関係だ。
10年ぶり制覇へ、改革の集大成を。
text by
寺野典子Noriko Terano
photograph byGetty Images
posted2017/11/18 08:00
啓太、阿部、長谷部、闘莉王、達也、永井、ワシントン、ポンテ……埼玉スタジアムで歓喜の声を挙げてから10年。再びアジア王者に輝く時は今だ。
犬飼体制で“ビッグクラブ”への土台を固めた。
犬飼社長はアグレッシブな経営者で、クラブハウスを改築し、資金面で親会社となる三菱自動車からの依存解消にも努めた。W杯用に建てられた埼玉スタジアムの6万人という箱に見合う強いチームを作るため、補強面でも動いた。
日本代表だった三都主アレサンドロ、都築龍太をはじめ、山瀬功治、田中マルクス闘莉王といった当時20代前半のアテネ五輪候補も獲得。岡野雅行の復帰も含めて、一気にリーグNo.1とも思える選手層を形成していく。
そして、'04年シーズンファーストステージを3位で終えると、セカンドステージで優勝を果たし、前年度王者の横浜F・マリノスとのチャンピオンシップに挑んだ。翌シーズンから1リーグ制への移行が決まっていたため“最後のチャンピオンシップ”と言われた2戦は、延長戦でも決着がつかず史上稀に見る激戦と評されたが、PK戦の末浦和は敗れている。タイトルの希求がさらに高まり、'05年にはロブソン・ポンテが加入した。
長谷部と三都主、闘莉王とポンテが言い合う環境。
「試合中に長谷部と三都主が言い合うことなんて、しょっちゅうだった。僕は闘莉王とポンテが怒鳴り合っている間でプレーしていたしね」と鈴木啓太が話してくれたことがある。
強い個性がぶつかり合うことで、チームの進化は加速度を増して進んでいった。同シーズンは最後の最後まで首位争いを続け、勝ち点1差でガンバ大阪にタイトルを譲っているが、天皇杯で優勝し、ACL出場権を獲得している。
そして'06年にはワシントンと相馬崇人が加入し、小野伸二が復帰した。さらに陣容を整えたチームは悲願のリーグ制覇と天皇杯優勝の2冠を達成し、ブッフバルトが退任した。'07年にホルガー・オジェックが2度目の指揮官として請われると、ジェフ千葉生え抜きで、オシムジャパンの中心選手でもある阿部勇樹が加入。当時国内最高額と言われた3億円を超える移籍金を支払っての獲得は、浦和レッズが国内随一のビッグクラブであることを証明する出来事だった。
「浦和レッズの一員として、埼玉スタジアムで戦いたい」
その後、新加入選手はもちろんのこと、Jリーガーにとどまらず、高原直泰や梅崎司、槙野智章ら、海外でプレーする日本人選手にも、そんな憧れと野心とともに浦和への移籍を決意する選手が増えたが、レッズブランドの確立をあと押ししたのが、'07年のACL優勝だったに違いない。