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浦和とACLは切り離せない関係だ。
10年ぶり制覇へ、改革の集大成を。 

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寺野典子

寺野典子Noriko Terano

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posted2017/11/18 08:00

浦和とACLは切り離せない関係だ。10年ぶり制覇へ、改革の集大成を。<Number Web> photograph by Getty Images

啓太、阿部、長谷部、闘莉王、達也、永井、ワシントン、ポンテ……埼玉スタジアムで歓喜の声を挙げてから10年。再びアジア王者に輝く時は今だ。

満身創痍の中、永井と阿部のゴールで歓喜の瞬間が。

 '07年のACLでは、グループリーグを負けなしの首位で突破した浦和。そして、準々決勝をトータルスコア4-1で勝ち上がる。準決勝は第1戦のアウエーで2-2、ホームでの第2戦は先制したものの2失点。長谷部のゴールで追いつき、PK戦の末に勝利している。

 当時、チームはリーグ戦でも首位を走っていたが満身創痍だった。また阿部、鈴木、田中、闘莉王と多くの代表選手を抱えていた。阿部の例をとれば、リーグ、ACL、代表との掛け持ちで、7月から毎月8試合を消化する状況が続いた。

 11月7日、セパハンとのACL決勝ファーストレグも、闘莉王は肉離れのため敵地への遠征メンバーには入っていない。田中、山田暢久など負傷を抱えている選手も多く、阿部自身も腰痛と戦っていた。それでもファーストレグを1-1で終えると、1週間後の11月14日、埼玉スタジアムでの第2戦、22分に永井雄一郎の先制ゴールが決まると、71分に阿部がとどめを刺した。

 1999年にジュビロ磐田がアジアクラブ選手権で優勝した歴史はあるが、ACLとなってからの日本勢の優勝は浦和が初めてだった。そして、クラブワールドカップへの出場も史上初の快挙となった。

アジア王者を手にして以降、浦和の成績は下降した。

 しかし'07年シーズンは、アジア王者の地位を手にして以降、リーグ戦で失速してしまう。結局、最終節で逆転優勝を許す結果に。思い返すと、多くの犠牲を払って得たアジアのタイトルだった、ということが分かる。

 '02年から始まったチームの大改革は、ここが“上げどまり”だった。欧州移籍のチャンスを得ながらも、「アジア王者になる」ことを目標に浦和残留を決めていた長谷部がドイツへ渡る。

 誰もが一種の達成感を抱いても仕方のない状態だったのかもしれない。

 翌'08年シーズン、開幕直後に成績不振でオジェックが解任される。コーチだったゲルト・エンゲルスが指揮を執ったものの、7位に終わった。続く'09年からフォルカー・フィンケが監督を務めた2シーズン、急激な若手起用を推し進めようとする指揮官の元から、次々とベテラン選手が去っていく。この時、アジア王者イレブンのほとんどが浦和を去ってしまった。阿部も'10年夏にはレスター・シティへ移籍することとなった。

 そして、'11年シーズンは残留争いを戦うほどに低迷したシーズンとなってしまった。

【次ページ】 復調のきっかけは“ミシャ・フットボール”。

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