欧州サッカーPRESSBACK NUMBER
あなたは吉村祐哉を知ってますか?
15歳で渡欧し「第2のSHIBASAKI」に。
text by
栗田シメイShimei Kurita
photograph byCDT Oficial
posted2017/10/29 09:00
吉村祐哉の成功は本人の意欲の為せる業だが、彼の才能を拾い上げられなかった日本の育成体制も再考の余地があるだろう。
日本にいた中学時代は、クラブのBチームだった。
強靭なメンタルの土台は、本人曰く「選手としての原体験」という中学時代に片鱗を見せていた。東京で生まれ育った吉村は、ジュニア世代を杉野百草SSで過ごす。中学進学の前には東京ヴェルディユースのセレクションを受けるが、不合格。
しかし、本人はあくまで競争力があり、高いレベルのチームを望んだ。そんな経緯もあり中学では部活ではなく、クラブチームのFC多摩を選んだ。だが、クラブではBチームとCチームを行ったり来たりする存在だった。
「中学時代を通じて、Aチームでの出場は片手で数えるほど」と本人は回想する。公式戦でのチャンスはほとんど与えられなかった。試合には、選手としてではなくビデオ係として帯同する日々。それでも、吉村が自身の技術を疑うことはなかったという。
「正直、自分よりも技術で劣ると思っている選手が試合に出ている、という現実が受け入れ難かったです。卒業を控え、憧れだったスペインに渡ることを告げた日も、『ここで試合に出られない選手がスペインでできるわけない』という目で周囲からは見られた。
でもその時の様子が悔しくて、悔しくて……。何が何でもスペインでプロになり見返してやろうと決意が固まりました」
スペインにわたっても、18歳までは苦難の日々。
卒業後は、留学会社の斡旋でスペインに渡る。だが、スペインも当初思い描いた環境とは言い難かった。ビザの関係もあり、公式戦には出場できない。マドリード州の街クラブ3チームを転々とし、選手登録が可能になる18歳まで待つしか選択肢はなかった。
「18歳まで公式戦に出場できないことは理解して、スペインに渡りました。それでも、いくら頑張っても出場のチャンスがない環境は精神的にこたえました。
スペインでなら成長できるという実感はあっても、試合で試すことができない。もどかしさは積もる一方。だから日々の練習で一喜一憂するしかない。正直、何度も日本に帰ろうと思いましたね。
ただ、今考えるとなんですが、試合に出られない3年間があったから、プレーに対する飢餓が常にある。それは今でも変わりません。結果が全てで、結果さえ残せば試合に出られる。サッカーに対する考え方、日々の練習に取り組む姿勢、全てを見直しました」