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山田哲人の神々しさを称えたい。
本塁打王の盗塁はいつから減ったか。 

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堀井憲一郎

堀井憲一郎Kenichiro Horii

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photograph byKyodo News

posted2017/10/24 11:00

山田哲人の神々しさを称えたい。本塁打王の盗塁はいつから減ったか。<Number Web> photograph by Kyodo News

本塁打で悠々と走り出す姿もいいが、ギリギリのタイミングを走り抜ける姿もまたいい。山田哲人にはどちらの姿も見せてほしい。

歴代本塁打王がどれぐらい盗塁したかを調べてみた。

 そこで。

 日本プロ野球史上の歴代本塁打王が、どれぐらい盗塁をしてきたのか、その記録をざっと見てみた。

「走る本塁打王」探しである。

 1936年に始まった日本職業野球は、1944年まで、あまりホームランが出ていない。そもそも試合数が少なかった。

 まあ、神々の時代である。

 そして、よく走っている。

 1937年春シーズン、本塁打王は二人、“班長”中島治康は4本塁打で18盗塁、松木謙治郎は4本塁打で24盗塁している。

 1939年の10本で本塁打王の鶴岡一人も21盗塁。

 1942年と1943年の連続本塁打王の古川清蔵は、本塁打はそれぞれ8本、4本で、盗塁は14と13である。

「本塁打数よりも盗塁数が多い本塁打王」の時代である。

 戦争の時代が終わりまして。

 1946年“ポンちゃん”大下弘が20本で本塁打王、盗塁も16記録している。

 翌1947年もポンちゃんの本塁打王、17本塁打で12盗塁だった。

 その翌年1948年の本塁打王は“打撃の神様”川上哲治と“じゃじゃ馬”青田昇。川上は25本で12盗塁。あの、川上哲治もそこそこ走っていたかとおもうと、ちょっと微笑ましい。青田昇は25本塁打で19盗塁。

戦後になると、本塁打王の盗塁数は減っていく。

 戦後になると、「本塁打数より盗塁数の多い本塁打王」はあまり出なくなる。それでも「本塁打王でも最低10盗塁はしている」時代でもある。

 1949年の藤村富美男は46本塁打で12盗塁。

 1950年セの小鶴誠の51本塁打28盗塁。パの別当薫は43本塁打34盗塁。

 ところが1951年の大下弘は26本塁打での本塁打王だが、盗塁は5つに減った。1953年の藤村富美男の1盗塁、青田昇も、1954年3盗塁、1956年と1957年1盗塁と激減する。

 本塁打王が走らなくなった。大下も藤村も青田も、すでに重鎮化していたのだろう。

 しかし、また走る本塁打者が出てきた。

 まず、中西太である。

 1953年36本で本塁打王、そして36盗塁である。

 盗塁と本塁打数が同数というのは、この時代にはなかなかすごいことだ。

 中西はここから4年連続の本塁打王となる。翌年は31本23盗塁、次が35本19盗塁、1956年は29本15盗塁。

 この時期だけ走る本塁打王が続出する。

 1957年セリーグ本塁打王の佐藤孝夫は22本で23盗塁。

 久しぶりの「盗塁数がホームランより多い本塁打王」である(1944年以来)。

【次ページ】 長嶋茂雄はいつも跳びはねているようだった。

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