プロ野球PRESSBACK NUMBER
山田哲人の神々しさを称えたい。
本塁打王の盗塁はいつから減ったか。
text by
堀井憲一郎Kenichiro Horii
photograph byKyodo News
posted2017/10/24 11:00
本塁打で悠々と走り出す姿もいいが、ギリギリのタイミングを走り抜ける姿もまたいい。山田哲人にはどちらの姿も見せてほしい。
いつからか、ホームラン打者は走らなくなった。
そもそもショーマンであるプロ野球選手には、常人には不可能なところを見せてもらいたい。
打つ。投げる。そして、果敢に走る。
それらすべてをこなす、まったき人間こそが、見てみたい。
かつて、そこそこのむかし、昭和のなかごろまでは、職業野球選手もさほど分業化されていなかった。投手であっても強打者であったし、「ホームランバッター」と「ヒットを打つバッター」も分けられていなかった。
投手もやるし、ホームランも打つし、どんどん盗塁もする。
牧歌的だけど、そういうものだった。神話的でもある。
そういう時代だった。
いつからか、オーバーフェンスホームランによってゲームが中断されることをおもしろがる客が増えていった。ホームランによる中断が喜ばれ、野手が立ち止まっている姿がショーになっていった。
打者もキャラクター分けされていく。
ホームランを量産するバッターは、重鎮となった。
重々しく、ばたばたしない。こそこそしない。隙を突いて塁を盗まない。そういう不思議な偶像化が進んでいった。
ホームラン打者は、走らなくなった。
なにか、とても残念である。松井秀喜は、ほんとうはもっと走れただろうにとおもう。
オーバーフェンスホームランはなぜ喜ばれるか。
野球場は広さが決められていない。
「そこそこ広いほうが望ましい」というような希望が野球規則に書かれているが、希望だから強制ではない。最初のベースボールフィールドには、フェンスがなかったからだろう。フェンスがなければオーバーフェンスも存在しない。
そこにはランニングホームランしかない。
外野手を越え、はるか地平線まで転がるボールを、野手はどこまでも追いかける。打者はその間に懸命に4つの塁を駆け抜ける。ホームランとは、そういうものであったはずだ。
本塁打は人を圧倒するものではなかった。牧歌的な時代は、鎬を削って、身を削って勝ち取ってくるものだった。
オーバーフェンスホームランが喜ばれるのは、「プレイ時間さえ止めてしまう圧倒的な力」に憧れるからだろう。