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「バドミントンで8位」の価値は?
大岩義明が世界的馬術大会で偉業。
text by
北野あづさAzusa Kitano
photograph byAzusa Kitano
posted2017/06/07 07:30
ボウフォート公爵が所有する「バドミントン・ハウス」を背にした大岩。この広大な個人宅には第二次世界大戦中、王室関係者も疎開していた。
3大会連続でオリンピック出場を果たした大岩義明。
日本人選手の話をしよう。
大岩義明(nittoh所属)。
子どもの頃から馬に乗っていた大岩は、馬術部の名門、明治大学で主将を務め、競技でも活躍したが、卒業と同時に就職して馬から離れた。社会人2年目の夏、シドニーオリンピックが開催された。その様子をテレビ観戦した大岩は、「自分が行きたかったのはここだったんだ」と気がついた。それからの行動は早かった。翌年にはわずかなつてを頼って単身でイギリスに渡った。言葉も話せない。初めての海外暮らし。働きながら馬に乗る環境に身を置いて、ひたすらオリンピックを目指した。
しかし、2004年のアテネオリンピックには届かなかった。
翌年、大きなチャンスがめぐってきた。総合馬術の世界では、オリンピック以上に大きな舞台かもしれない『バドミントン・ホーストライアルズ』に出られることになったのだ。それだけの実力を持った馬とめぐりあったことと、大岩自身もそれなりに経験を積んでいたことで、それが実現した。
初めての参加で11位。
悪くない成績だ。それどころか、日本の馬術界にとっては“輝かしい”結果だった。しかし、それは狭い世界の中でのこと。日本の一般メディアが取り上げる成績ではなかった。
その後、大岩は当初の目標を達成し、北京、ロンドン、リオデジャネイロと、3大会連続でオリンピックに出場した。
「できることは全てやった」
リオでは20位で、自身最高かつ戦後の日本の総合馬術史上最高位の結果を出した。リオの経験は自信につながった。
すぐに、「来年はバドミントンに出る」と決め、シーズンオフにも人馬ともにバドミントンを見据えたトレーニングをして、春先から調整を兼ねて競技会に参加してきた。
「できることは全てやった。あとは冷静にミスのないパフォーマンスをするだけ。出しきりたい」と静かな闘志を胸に、バドミントンに入った。100を超えるエントリーがあったが、実際に競技出場にこぎつけたのは82組だった。
大岩のパートナーは、リオをともに戦った「ザ・デュークオブカヴァン」。
体が大きくパワーのある馬で、大岩の役割は、この馬をうまく導くこと。コンビを組んで2年以上になるので、今ではお互いのこともかなりわかってきているという。