ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
内藤哲也に新日“直言”の系譜を見る。
彼の暴言三昧がなぜ喝采を受けるか。
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byEssei Hara
posted2016/06/16 11:00
IWGPのベルトをリングに捨ててリングを降りるパフォーマンスも、ファンは喝采で見送った。内藤哲也はどこまでいくのだろうか。
同世代の藤波や佐山に取り残されながら……。
長州は'73年に、ミュンヘン五輪レスリング代表として鳴り物入りで新日本に入門しながら、長らく中堅クラスで燻り続けていた。そうしている間に、'80年代に入ると同世代の藤波辰爾は猪木に次ぐ存在となり、後輩の佐山サトルもタイガーマスクに変身し、国民的大スターとなる。
出世レースから完全に取り残された長州は、'82年4月、「これでダメだったらプロレス界から足を洗おう」と不退転の決意でメキシコにわたり、現地のメジャータイトルUWA世界ヘビー級王座を奪取したのち帰国すると、「俺はおまえの噛ませ犬じゃない!」と、藤波に牙を剥き、大ブレイクをはたした。
ゴールデンで高視聴率でも、長州には危機感が。
長州も内藤も自分を変えるためにメキシコ修行に最後の活路を求め、帰国後、本音をすべてさらけだした。そして、不遇の時代が長かったからこそ、彼らの叫びは真に迫っており、その結果、多くのファンの共感を呼ぶこととなり、一躍時の人となったのだ。
そして長州は完全に時流に乗ると、「プロレス界に非常ベルが鳴っているのに誰も気づかない!」という言葉も残している。当時の新日本は、毎週金曜夜8時のゴールデンタイムにテレビ放送され高視聴率を獲得、会場も全国で満員を記録していた。しかし表向きの繁栄とは裏腹に、力の衰えた猪木がメインを張り続け、全権をにぎる猪木の新日本私物化が目立つという問題も抱えていた。
プロレスブームに沸く中、それらは見て見ぬふりをされていたが、長州だけは危機感を敏感に感じ取り、それを言葉にしていたのだ。
思えば、蝶野の会社批判もnWoブームに沸く中で発せられたものだ。そして内藤哲也の発言も同じだ。「新日本プロレスの一人勝ち」「プロレスブームの再来」と言われる一方で、今年に入り中邑真輔、飯伏幸太、AJスタイルズらが離脱するなど、ファンの潜在意識に、今後の新日本へのいいようのない不安感が広がり始めているのは、想像に難くない。
そんな状況下における閉塞感打破を期待する気持ちが、内藤支持へと走らせているのだろう。