プロレスのじかんBACK NUMBER
最後までプロレスは“辛口”で――。
天龍源一郎、堂々たる革命の終焉。
posted2015/11/17 16:00
text by
井上崇宏Takahiro Inoue
photograph by
Essei Hara
「(今後については)何も考えていないですよ。答えがあるとしたら……ビールでも飲みますか」
ついさっき、現役生活に終止符を打ったばかりの天龍源一郎は、両国国技館の館内に特設された会見場で、多くのマスコミ関係者に囲まれていた。
逆水平チョップ、グーパンチ、顔面へのつま先蹴り、WARスペシャル、デンジャラス・ドライバー・テンリュー(DDT)、53歳(垂直落下式ブレーンバスター)、そしてパワーボム――。自らの得意技を総動員して、最後の相手であるオカダ・カズチカに対抗したが、やはり勝てなかった。やはり、と言うのは14歳(一説には13歳とも)で大相撲の世界に飛び込んでから通算格闘技生活51年。つまり天龍は65歳になっていた。思うように動かぬボロボロの肉体は、長年の身を削った激闘の代償だった。
目の前のテーブルに一列に並べられた缶ビールの銘柄はアサヒのスーパードライ。天龍はそのうちの1本を手に掴みながら、話を続ける。
「これは俺が(阿修羅・)原と(龍原砲を)やり始めたときに、世の中に出たビールだったんですよね。美味しかったですねえ。あの頃と同じテイストがするか? ちょっと失礼して……」
猪木が発明した“リアルな感情を含んだ日本人対決”。
1987年3月。
2年前に全日本プロレスに乗り込んできた長州力らジャパンプロレス勢が古巣・新日本プロレスに帰っていった。“異分子”である長州らを最前線で迎え撃った天龍だったが、そんな刺激的な闘いの日々も、終わってみればあっという間の出来事だった。
力道山時代より長らく、日本のプロレスは“日本人対外国人”というのが定番かつ、もっともエキサイティングなフォーマットだったが、“リアルな感情を含んだ日本人対決”という新たなフォーマットを発明したのが、新日本の総帥・アントニオ猪木だった。
そのフォーマットは、同門がゆえ、または団体の存亡をかけるがゆえのジェラシーや因縁、尊敬といったリアルな感情が闘いのなかで発露されるという生々しさで、プロレスにおける闘いの意味をより先鋭化させていった。これはジャパンプロレス参戦をきっかけに全日本にも持ち込まれることとなり、リング上はやはり活性化したが、長州らが去ったことにより、全日本はまたもとの“日本人対外国人”という定番に戻らんとしていた。
しかし、天龍はジャイアント馬場に次ぐ全日本のナンバー2の座をずっと確保していたジャンボ鶴田の闘いぶりには、長年不満を抱いていた。“鶴龍コンビ”としてタッグを組んでいたときもその思いは変わらなかった。
「こんなにもジャンボのことを応援してくれるファンがいるのに、なんでもっと一生懸命やらないんだ」