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最後までプロレスは“辛口”で――。
天龍源一郎、堂々たる革命の終焉。 

text by

井上崇宏

井上崇宏Takahiro Inoue

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photograph byEssei Hara

posted2015/11/17 16:00

最後までプロレスは“辛口”で――。天龍源一郎、堂々たる革命の終焉。<Number Web> photograph by Essei Hara

ジャンボ鶴田、阿修羅・原(共に故人)、藤波辰爾(61)、長州力(63)らと半世紀近くも戦い続けたレジェンド。

どうしても許せなかった鶴田の姿勢だが……。

 大相撲からプロレスに転向してきてすぐに、アメリカ・アマリロに修行に行ったときのこと。ドリー・ファンク・ジュニアのもとでプロレスの手ほどきを受けてちょうど3カ月が経ったとき、ドリーはこう言った。

「ツルタの場合は3カ月が経ったときにはもう教えることは何もなかったぜ」

 そう言われた天龍は、とてつもない焦りを感じた。なぜなら、同じ3カ月の期間で天龍はまだプロレスの何たるかがまるでわかっていなかったからだ。

 名伯楽ドリーにそこまで言わせる鶴田への幻想は、天龍のなかで際限なく大きなものとなったが、のちに日本に帰ってきてみると、鶴田はたまに外国人のトップレスラーとだけは白熱した試合を繰り広げていたが、普段は怠惰で退屈な試合を連日行なっていた。

 たとえば、試合中に相手にコブラツイストをかける。そのときにリングサイドで撮影しているスポーツ新聞社のカメラマンを見つけると、鶴田は途中でその方向に向きを変え、「はいはい、ここ写真撮ってね」とやる。そんな鶴田の姿を見て天龍は「ふざけるな!」と思った。しかし、天龍は天龍で、そこではっきりと鶴田に異を唱えられるほどのプロレスの思想を自身で確立、実行できていたわけではなかった。

猪木の“ストロングスタイル”が流れを変えた。

 一方で新日本、すなわち猪木は「こんなプロレスをやっていたら、10年持つ選手生命が1年で終わってしまう」という台詞とともに、“ストロングスタイル”といわれる過激なプロレスを実践していた。

 当時、猪木は日本のプロレス界の主役だった。

 年に一度のプロレス大賞授賞式の式場でも、いつだって中心に立っているのは猪木だ。天龍が国内デビューで新人賞を受賞した1977年も、猪木は当然のように前年に続きMVPをかっさらった。

 登壇した各賞を受賞したレスラーひとりひとりに団体の垣根を越えて「おめでとう」「おめでとう」と声をかけながら握手を求めて回る猪木の姿を「うわあ、キメてんなあ」と思いながら黙って見ていた天龍だったが、同じ全日本のある選手が猪木に手を差し伸べられた瞬間に、自分のスーツで手のひらを拭いてから握手に応える光景を目の当たりにして、「この野郎、俺たちゃ全日本だろ。猪木さんと握手する前に手ぇ拭きやがって!」と憤った。

【次ページ】 猪木のプロレスより過激にできるという自信。

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