プロレスのじかんBACK NUMBER
G1の勝者は棚橋弘至だったが……。
中邑真輔が貫き通した、ある信念。
text by
井上崇宏Takahiro Inoue
photograph byEssei Hara
posted2015/08/17 14:30
32分を超える激闘を終えたふたり。宿命のライバルであるふたりだが、実はG1決勝では初の対戦であった。
新日本プロレス暗黒期、2人は何を考えていたのか?
新日本プロレスの暗黒期を支えてきた2人。端からは“ライバル”と呼ばれ続けてきた。
棚橋が新日本に入門したのは1999年。翌年、新日本のオーナーだったアントニオ猪木が、PRIDEのエグゼクティブプロデューサーに就任したあの時期だ。
新日本プロレスの暗黒期とは、PRIDEやK-1などによってもたらされた日本の格闘技全盛時代とリンクしている。
困難な状況の真っ只中にあって、若手だった棚橋はずっと憤っていた。
そんな格闘技全盛の2002年、中邑が新日本入門をはたした。
レスリングと格闘技の心得がある中邑は、入門後わずか数カ月でプロレスデビューをすることになるのだが、同時にプロレス代表として総合格闘技のリングにも駆り出されるという複雑なキャリアを背負うことにもなった。
猪木不在の新日で、中邑たちが追い求めるものとは?
いまや新日本プロレスにアントニオ猪木はいない。総合格闘技が日本で隆盛を誇った時代も去って久しい。新日本はいま、誰もが心置きなくプロレスを追求、実践できる環境にある。
“おまえの根底にあるものってなんだよ?”
オカダにばっちりと決めた飛びつき腕十字、あれは中邑真輔が持つ“格闘技”という要素、“根底”のひとつではなかったか。
結局、棚橋戦でも繰り出した飛びつき腕十字は、いささか不十分な体勢となり棚橋からタップを奪うまでには至らなかった。優勝戦は、あそこで勝負がついてしまった気がする。