野球クロスロードBACK NUMBER
腰痛との戦い、FA、金本の言葉……。
藤本敦士が語る野球人生での“悔い”。
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2013/09/13 12:00
阪神からFAで移籍したヤクルトで、ユニフォームを脱ぐ決断をした藤本敦士。通算1000試合出場を果たすことはできるのか。
持ち前のしぶとさと堅守で'03年の阪神優勝に貢献。
腰の激痛から不眠症になるくらいだから、野球なんてまともにできるはずがない。藤本は、わずか1年で大学を中退し、リハビリ生活を送ることを選んだ。腰回りの筋肉や体幹を徹底して鍛えた結果、専門学校、社会人でプレーできるほど容体は回復し、'00年、阪神にドラフト7位で指名された。
遠回りだがプロ入りできた要因は、当時の野村克也監督をして、「追い込まれてからのフォークを平然と見送れる」と言わしたしぶとさ。そして、堅実なショートの守備が評価されたから。「基本的に、積極的に盗塁をする選手じゃないんで」と本人は否定していたが、同期入団の赤星憲広らとともに「F1セブン」として機動力も売りとされていた。
小回りの利く、使い勝手のいい選手として1年目から一軍での出場機会を数多く貰っていた藤本がブレークを果たしたのは、3年目の'03年だった。
開幕からショートのスタメンに定着し、阪神の18年ぶりのリーグ制覇に大きく貢献。打率も、最終戦で2安打したことで3割の大台に乗せた。
3年目で優勝チームのレギュラー。ファンは皆、自分に大声援を送ってくれる。特に阪神は、他の球団以上にそれが極端な形で表れるため、若い選手は往々にして周りが見えなくなる。
金本知憲の「金言」に耳を貸さなかったわけではなかったが。
藤本もそうだった。後年彼は、自嘲気味に当時を回想していたものだ。
「阪神やったら、ちょっとだけでも活躍したら周りがちやほやしてくれる。もちろん、打てんかったりミスしたらめっちゃ野次を飛ばされますけど、どっちかっていうと応援してくれることが多い。だから……天狗になるっていうよりは、勘違いしてしまうんですよね。『俺、これでいいんや』みたいに」
実際、レギュラーとして浮かれ始めている藤本を危惧する先輩はいた。金本知憲だ。彼は藤本に、こう諭していたという。
「俺はプロとしての目標がなくなると思ったから、お前に3割を打ってほしくなかった。レギュラーっていうのはな、5年くらいポジションを守り抜いて初めて言えることなんだぞ。プロの世界は、一寸先は闇だからな」
金本の「金言」に耳を貸さなかったわけではなかったが、この時の藤本は自身のプライドを優先してしまっていた。