野球クロスロードBACK NUMBER
腰痛との戦い、FA、金本の言葉……。
藤本敦士が語る野球人生での“悔い”。
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2013/09/13 12:00
阪神からFAで移籍したヤクルトで、ユニフォームを脱ぐ決断をした藤本敦士。通算1000試合出場を果たすことはできるのか。
鳥谷の入団、レギュラー争い……失った出場機会。
「あの時の自分が情けないと思いますもん。金本さんの言葉に『そうですね』と頷いていたものの、プライドもあったから、心のなかでは『いや、でも……』と反論したい気持ちがあったのは事実で。周りからは、『お前は大丈夫や』と応援してもらっていたし、そこで逃げ道を作ってしまったんでしょうね」
藤本はそう言って、苦笑いを浮かべていた。金本の言ったことは徐々に現実となっていく。
'04年にはゴールデンルーキーの鳥谷敬が入団したことで、ショートのポジションを奪われた。それでも、アテネ五輪の日本代表に選ばれるなど前年レギュラーだったアドバンテージは大きく、セカンドにコンバートされた後もスタメンに名を連ねた。'05、'06年も規定打席に到達しなかったもののレギュラークラスの立場は変わらなかった。
藤本の順調な野球人生に陰りが見え始めたのは、金本の訓示にもあったレギュラー5年目を迎えた'07年。関本健太郎(現・賢太郎)にセカンドのポジションを奪われてからだった。翌年にはオリックスから平野恵一が移籍し、次の年には大和が台頭するなど、次第に藤本の出場機会は失われていく。出番があるとすれば、ほとんどが守備固め。それでも、藤本に危機感はなかったという。
「ぬるま湯につかっていた」阪神からヤクルトへ。
「ベンチでずっと試合を見ていて、『今日は出番がなかったな』って日が多くなるにつれ、『あ、俺の役割がなくなってきてる』とは思うようにはなりました。けど、ファンがぎょうさんいる甲子園でちょっとでも試合に出れば、またみんなから応援される。自分では『このままじゃいけない』と感じていたのかもしれないけど、今にして思えば満足していたというか、『ぬるま湯につかっていた部分もあったんかな?』とは思いますね」
'09年に国内FA権を取得した藤本は、当初こそ「使わんだろう」とその権利を放棄しかけていた。だが、矢野燿大ら他球団から移籍してきた先輩たちに、「他のチームに行ったほうがお前のためにもなる」といった助言を受けた。ファームでショートを守ることで、「まだ俺は動ける」という自分に対する期待も日に日に高まり、同年オフにFAでヤクルトへの移籍を決意した。
「『とりあえず一軍におろう』って考えじゃダメやと思ったんです。もう1回、失敗を恐れず、がむしゃらにやっていこう、と」